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選挙戦のたびに、フィルターバブルの中で生きているのだなと実感する。

それはSNSの性質によるものでもあるし、わたしの生活環境のせいでもあります。またはわたしの都合のいい脳味噌のせいかもしれない。

あんなに若年層が投票に行っていたのに、呼びかけをしている人もたくさん見かけたのに、投票率はやっぱりそんなに高くないんですよね。わたしがTwitterで一番目測したのは宇都宮氏を支持するツイートだったけれど、ふたを開けてみたら圧倒的多数で小池氏が当選しました。

 

それは考えてみればそれは当然のことで、SNSでフォローしているのは発言などになにかしら共感しているからだし、わたしが興味のあるコンテンツに同じように興味を持っている人だからだったりするわけで、その中でエコーチェンバーが起こることだって全然不思議じゃないんですよね。

そういう側面があることはわかっているから、わたしはアンチフェミニストや、どちらかと言えば右翼的と言えるようなフォロイーをそのままフォローしているアカウントも持っています。ブロック機能もほとんど使ってないです。攻撃されるようなアカウントでもないし、先鋭化してしまうことが怖いので。

 

生活環境については、それ以前に育ってきた環境が特殊だと思います。中高一貫カトリックミッションスクールに通わせてもらって、県内随一の進学校だし、教育カリキュラムもかなり充実していました。強烈な先生はたくさんいたけれど、わたしたちの学年が高校1年生だったとき、公民を担当していたH先生は、名前を挙げればほとんどの生徒が納得するくらいには癖の強い人だろうと思います。

彼は一年間、半数以上の生徒があっけにとられるほどの熱量で政治について話していました。かなり過激だった。かなり過激だった……。わたしは好きだったけど。期末考査に出してきた歴代政治家の顔に「バカ」って落書きしたり、髭を描いたりするのはさすがにやめたほうが良いと思うけど。見難いので。

さすがにH先生の授業を細部まで覚えているわけではないんですが、彼の授業は教科書をなぞるだけのものではなくて、彼自身の意見を話していたことが強く印象に残っているし、それでいて決してそれを押し付けるわけではない人だったなと記憶しています。いかんせん声がでかいし動きもでかいし落書きもするしで、なかなかその誠実さは頭に入ってこないのだけど。

何年か前にメディアでインタビューを受けていたのを拝読した記憶があるんですが、ネットで記事を見つけることができませんでした。大変残念。

わかりやすく教科書通りの授業をする公民の担当の先生もいたし、バランスが取れていたんじゃないかと思うのだけど、どうだろう。わからないです。

それだけではもちろんないのだろうと思いますけど、あの先生の授業を受けたことはわたしのなかでの原体験となっていることは確かだと思うし、政治について考える素地を育ててくれたことは間違いないと思います。

それ以外にも、確か有権者教育は外部の人を招いて行っていたはずです。ちょうど選挙権の年齢が引き下げられた時期だからだと記憶しているけど、自分が何歳の時だったのかは覚えていない。高校生ではあった、と思うので、2年生かなあ。

進学先の大学での研究分野は社会学系で、そもそも進学ができる時点でもう1層フィルターを通り抜けているかもしれないし、愛知県から首都圏に進学しているところでもそうかもしれない。主語を大きくする気はないけど、フィルターバブルの中のみんなが政治に多少なりとも関心を持っているというのは全然不思議な話じゃないなと思います。

母はともかく、父も政治には関心があるほうだと思うし。まあ興味がないとはいえど、わたしが物心ついてから、母が投票に行かなかった姿を見たことはないし、引っ越しをするときだって「東京に住民票を移さないといろいろと困るでしょう。選挙とか」くらいのことを言う人ではあるので。

 

そういう環境で生きてきた人間が書いていると思って読んでほしい。以上がわたしのバックグラウンドインフォメーションです。

そのうえでわたしがここに書きたいのは、この国の民主主義の限界を今回の選挙(に限らずではあるのだが、便宜上こう書くのをゆるしてほしい)で痛感した話です。別になにも目新しい議論をするわけではないのであまり期待はしないでください。「限界」というのも適切な表現ではないかもしれないけど、今のところほかにいい表現が見つからないため暫定的にこれを用いることにしました。

原因としては政治的無力感や政治的疎外感、政治的無関心だと思うのだけど、冷笑主義的な雰囲気が席巻していること、また代議制民主主義の概念が浸透していない(理解が乏しい?)ことの二点。わたしが今考えているのはこの二つについてです。

 

先日の東京都知事選挙後、わたしは夜20時からTwitterで選挙速報を視聴していました。当選確実となった小池氏にインタビューをするシーンで、流れていくコメントが冷笑主義的なもの、小池氏に対する強い口調での暴言などにあふれかえっていてそっと画面をスワイプする羽目になった。

冷笑的な批判・揶揄はこう……なんなのだろう。主に向けられるのはリベラル層に向けてであると思うのだけど、リベラルが今主張していることのほとんどは基本的人権の枠を逸脱しないですよね。「理想論だ」「問題を問題とすることがで問題を生んでいる」「問題提起して飯を食っている奴らは解決する気がないのだ」みたいな意見をよく見かけるけど、問題を解決する気がないのは問題提起を冷かしてわらうだけの貴方では……という話で。厄介なのはこの思想がネオリベラリズム的な自己責任論と相性がいいことなのだろうと思うのだけど、これは今回の選挙の結果にかなり顕著に表れたのではないかと考えています。

 

代議制民主主義の概念が浸透していない、と書いたのは、今回の選挙の結果がかなりいびつなものだったなと思うからです。

2ちゃんねるの開設者のひろゆき氏の発言だったと記憶しているんですが、以前彼は「自民党の人たちはもっとやりたいことやればいいんですよ。だって選挙で選ばれたんだから。選挙ってそういうもんでしょ」というようなことを言っていて。

これはマジでそうだと思うんですよね。わたしは「自民党に入れた人が自民党のやることを批判しちゃいけない」とまではいわないけれど、「文句を言ってるけど、入れたのあんたじゃん?」とは思います。わたしは自民党に投票したことないですけど。

でも「次の選挙も自民党に入れなね!自民党を前は支持してたんだから」とはならない。自民党が選ばれた、やりたい放題やった、それがおかしいと思ったら次は違う候補者に入れようね、っていうだけの話なんですよね。

そのうえで、今回の都知事選のNHKによるアンケートの結果、都民は小池氏が前回掲げた7つの公約を何一つ達成しておらず、弱者への共感力が欠け、将来を描く力がなく、主張も行動も一貫していないと思っている(※1)。それにもかかわらず彼女は再当選を果たしたわけですよ。これを民主主義が正常に機能している状態だと言える?

わたしは言えないなと思う。個人的見解としては氏の当選は組織票+候補者同士のテレビ討論がなかったにもかかわらず氏は連日テレビに出演して顔を売り続けた結果なのかなと思うけど、そこにも本邦「民主主義」の歪さはあると思います……。

 

前に進んでいくためには、何をしたらいいのかな。議論をするというのが一つの手であると思うのだけど、問題はその場をいかに確保するかだろうし、そこでは各人の意見が尊重されなければならないだろうし。そういう役割を担うのにSNSはやはり向いてないのかなと思います。

ただ、SNSで発信することが無力と言いたいわけではないです。それはそれで、やらないよりやっぱりましだから。

2020年に入ってから、「芸能人の政治的発言」が多く見られようになりました。もちろん以前から積極的に意見を発信されている方はいらっしゃったけれど、検察庁法改正案の時に一気に増えましたよね。それこそ、ネットだけに留まらず地上波メディアがコンテンツとして取り上げるほどに。

これはかなり喜ばしい出来事だったと思っています。コロナウイルスが感染拡大した状況下というのもあっただろうし、検察庁法改正案がマジでクソだったってのもある。ハッシュタグアクティビズムがちょっとずつ根付いてきたのもあると思う。

検察庁法改正案の時にツイートをして話題になっていたきゃりーぱみゅぱみゅさんは、今回の都知事選についても候補者の主張をまとめたサイトをポストしたりしていました。マジリスペクト……愛と連帯を表明する。

わたしが高校時代の先生や両親に影響をうけて選挙に行っているように、きゃりーぱみゅぱみゅさんに影響されて選挙にいく18歳がいるんだと思う。それってすごく素敵なことだと思います。

とはいえ、ここから先政府はきっと言論統制をしようとするだろうなと思うんですよね。わたしが政府なら規制する。どうやってそれに抗っていくのか、っていうのが、「芸能人の政治的発言」問題の次の課題なのかなあ。火種を絶やさないみたいな。

 

選挙に投じた一票は、その候補が当選しなくても無駄になるわけではない、ということは今更説明するまでもないことだろうと思います。多数決が民主主義とは言えないように、選挙もまたそれで終わりではない。即物的な実効性は確かにそこにはないかもしれないけれど、例えば20代で宇都宮氏の支持率が高かったことやなんかは、事実として残るのだ。それをどう使うかは政治家次第だけれども。

一方でわたしたちは議論を重ねていくべきなのだと思うし、日本の民主主義(日本の、と言っているがほかの国のことはよく知らない。これ今言う?もっと最初に書くべきだったかも)に必要なのはそのプロセスなんじゃないかと思います。

 

これを書きながら、就活中に聞かれた質問のことを思い出していたんですが、最後に面接を受けた会社で「学生団体をやっているって言っていたけど、その活動をして何が変わったの?その活動って具体的に何かを変えるアクションを起こしているわけじゃないよね?」みたいなことを言われたんですよね。

その時は、そもそも目的が解決ではなく問題の顕在化であり、それをきっかけに友人と議論をしたこともあること、また今後の活動として議論の場を作ったり具体的なアクションにつなげたりすることを考えている、みたいなことを答えたんですけど、まあ辞めたので結果的には真っ赤なウソになってしまったわけですが、それは置いておいて。

即物的なアプローチではないという意味では、わたしが参加していた学生団体のやっていたことは、わたしが宇都宮氏に票を入れたことと似ているのかなと思うし、SNSで政治の話をすることとも似ているのかなと思います。

正直、この質問を面接で聞かれたときは、「即物的に成果がないなら意味ないんじゃないの」みたいなニュアンスが感じ取れてカチンときていたのだけど、今思えばそれは両方必要なんですって言えるし、それを認識することが政治的無力感の払しょくにも寄与するのではないかな。

投じた一票は無駄にならないし、180万人に冷笑されようと誰かの基本的人権を守るために怒ること、意見を述べることは間違っていない。無駄じゃない。

でもそれとは違うアプローチのアクションを起こすことも必要で、具体的にそれをどうしていくのかは引き続き考えていたいと思います。

 

長くなった割には決意表明で終わってしまった。

なにか思いついたことがあれば教えてください。議論をしましょう。バブルを割って、とりあえず民主主義を、というよりは生存戦略をしていきましょうね。

 

(※1) https://www.nhk.or.jp/senkyo/opinion-polls/02/