AFTER’95

 

わたしの中学の校長は、ことあるごとにわたしたち学生に「あなたが素晴らしいのは、あなたがあなただから」だと言った。あなたたちはかわいい、それはあなたたちが勉強ができるからでも、運動ができるからでも、先生たちの言うことをよく聞くからでもない、あなたがあなただから、私にとってはかわいいのだと言ってくれた。

そして、「かしこい人になりなさい」とも言った。本当のかしこさとは、単に勉強ができるということではない。あなたたちが履いている体育館シューズを見なさい、あなたたちの手元にそれが届くまでに、デザインを考え、機能性を追求し、布を縫い、包装し、届けてくれた人がいる。あなたがその靴を履くことができるように、それを買うためのお金を稼いでくれた人がいる。その苦労を想像できること、そしてそれを思いやることができること、それが「本当のかしこさ」なのだと言った。

 

先日読んだ宇佐美りん『くるまの娘』で、主人公のかんこは両親と共にいることを選んだ。彼女と同じように傷ついてきて、傷つけられてきて、彼女を傷つけ続ける両親と共にいることを選んだ。彼女はそれを象徴するかのように車に住んだ。

 

この〈くるま〉は、『輪るピングドラム』の中では、〈箱〉に喩えられていたものだろう。過去の呪い=絶望のメタファーであるサネトシはこんなセリフを口にする。

「人間っていうのは、不自由な生き物だね。何故って?だって自分という箱から一生出られないからね。その箱はね、僕たちを守ってくれるわけじゃない。僕たちから大切なものを奪っていくんだ。例え隣に誰かいても、壁を越えて繋がることもできない。僕らは皆一人ぼっちなのさ。その箱の中で、僕たちが何かを得ることは絶対にないだろう。出口なんてどこにもないんだ。誰も救えやしない。だからさ、壊すしかないんだ。箱を、人を、世界を。」

サネトシ=絶望のメタファーは、彼の凶行を止めようとする荻野目桃果=愛のメタファーに「君はすべてを救えない」と言う。じゃあ、もう半分を救うのは誰だろう。

 

家族というパッケージ=〈箱〉=〈くるま〉の中で、加害とコミュニケーションの境目は曖昧になることがある。わたしの恩師はその原因を「ファミリー・エゴ」(家族という枠内でしか機能しない発言や思考を生み出すエゴ) と呼んだ。「ファミリー・エゴ」でパッケージングされた〈箱〉=〈くるま〉の中では、情動が前景化する。そのため、そこは論理(的整合性)が通用しない〈場〉にならざるを得ない。だから、論理的に立ち向かおうとする奴には負け戦が約束されているようなものだ、と。

「ファミリー・エゴ」から生じる「甘え」は、人の弱み(良心)に無作法に踏み込んでくるから、多くの場合〈暴力〉として作用する。通常は、容認か、突き放すかの二択だけど、家族の場合はそのどちらも難しい。どちらに転んでも、良心の呵責に苛まれることもあるだろうから、一見「出口なんてどこにもない」のだ。だから、問題から一旦距離を置くのも手段の一つなのだろう。

 

だが、突き放すことと距離を置くことが同一視されてしまう場合、それは手段の一つにカウントできるのだろうか? 少なくとも多分、わたしの母親はそう捉える。かんこの両親も、かんこも、家=〈くるま〉から距離を置いた兄や弟を「家族を捨てた」と捉えていた。

わたしが仮に「家族を捨てた」として、あるいは距離を置いて逃げたあとそのまま逃げ切ってしまったとして、過去のしがらみからも逃れ切ることができるだろうか。良心の呵責を捨て去ることができるだろうか。

わたしには多分、できない。しかし、〈くるま〉の中でじっとしていることもできない。沈むことがわかっている泥舟でじっとしているのは趣味じゃないしね。

だから、どっちかを選ぶのはやめにした。どっちも、或いはどちらでもない選択肢として、自分が諦め切れるまで、諦めないということをやろうとしている。わたしがこの先もずっと、生きていくために。

 

先日両親に話をしたのはそのためだった。

わたしの中でまだ、ほどけていないこと、切り分けられていないことがおそらくたくさんあって、これからそれをやっていきたいと思っていること。そして、どこにどのように傷ついたのか、どうしてほしいのかを言葉にしたいと思っていること。そのため、現時点で両親に期待することはないが、今後このように話し合いをしようと試みたり、自分の考えたことを伝えたりするかもしれない。その時は、できればわたしの言うことを理解しようと努めてほしい、それは従ってほしいと言う意味ではなく、わたしが独立した個人として考え、悩み、導き出した結論であることを尊重して、受け取ろうとしてほしい。と、いうようなことを言った。

伝わったかと言われると、正直微妙なところだ。恩師も言っていたが、多分わたしと両親には共通の理解 (and/or 言語/能力)  がないんだと思う。それでも、わたし自身が納得するために手を伸ばしたいと思っている。今は少し距離を置いているけれど、まだ諦めてはいない。

 

劇場版 輪るピングドラム RE:cycle of the PENGUIN-DRUM[後編]僕は君を愛してる の中で、サネトシに絶望を突きつけられた少年たちが「それがどうした!」と叫ぶシーンがある。そして彼らは絶望を塗り替えて、次に向かいたいところへ走っていく。途中で限界にぶち当たって、それ以上進めなくなった時に、その壁を破るのが荻野目桃果=愛である。彼女は「イマジン」と叫びながら限界を突き破って、「きっと何者かになれる」と言い放つ。そして、サネトシを捕まえて彼女は言う。何度やっても無駄だと。世界は絶望に飲み込まれたりなんかしない、と。映画の中ではペンギンの赤ちゃんの格好をしたサネトシが、いつもの調子で答える。「だよね」って。

 

愛に限界があるのだとしても、それで全ては救えなくても、やり方が間違っていたとしても、それでも手を伸ばすことを諦めないでいられたら、きっとわたしは生きていける。過去に呪われずに、わたしのままで、「愛してる」をつないでいける。

何度絶望を突きつけられても、時にそれに救われて、それすら愛して生きていける。

ピングドラムをありがとう。愛してるよ、いつだって、一人なんかじゃない。

 

以前、こんなことを書いていた。

「何者にもなれない」というのは、たとえばウルトラマンにはなれないとか、五条悟にはなれないとか、テレビで輝くあの俳優さんにはなれないとかそういうことなのか、それとも「自分以外の何者か」にはなれないよっていう意味なのか、それっておんなじことですか? 

なんていうか、役を求めるのは違うよなっていうのと、「自分以外にはなれなくても自分ではいられる」みたいなところで、わたしの中には差があるような気がしています。どうかな、一緒のことですかね?

tabetyaitai.hatenadiary.jp

 

うん、違うよ。だからわたしたちは「きっと何者かになれる」のだ。大切な誰かに、まだ大切ではない誰かに、薔薇を手渡すことで。見つけることで。それでも幸せになろうとし続けることで。ウルトラマンになれなくても、五条悟になれなくても、荻野目桃果になれなくても、「陽毬のお兄ちゃん」になれなくても、あなたのかわいい友達にはなれる。そしてたぶん、あなたの友達はほんとうに賢い方がうんと素敵で、立ち塞がる壁だって天井だってぶち破ることができて、きっとどこにでもいけるのだ。