Friendship is a single soul dwelling in two bodies.


犬が死んだ。わたしはこれを書く必要はきっとないんだろうと思う。でも書くね。できる限り、覚えておきたいと思うから。

 

犬は8月の2週目くらいから一気に体調を崩していた。犬が死ぬことは怖かった。何もできないことも怖かった。
わたしは犬の助けになりたかった。生き物が死ぬときに究極的にはなにもできないともうわたしは知っていたけれど、犬が今困っていることをできる限り取り除いてやりたかった。帰ろうかなとも思ったが仕事もあるし、猫もいる。「逃げ」だろうかと思いつつも、現実的に考えたら難しかった。

わたしは毎日電話をかけて、犬の様子を見ていた。話しかけるときょろきょろと首を動かしてわたしを探すようなそぶりを見せたり、どんどんスマホに顔を近づけてきたりするのが嬉しかった。母親が抱っこしていないと不安そうにすると聞いたので、どこにでも一緒にいけるようにスリングを買った。気に入って寝てくれたようで、それも嬉しかった。苦しそうに鳴くことが増えて、正直、そろそろなんだろうなとは思っていた。母犬の時もそうだったから。

 

その日は親が動画を送ってくる頻度が高くて、内容を見てもかなり具合が悪いんだろうなということが見て取れた。友達の誕生日を祝う予定があったけど、早く帰るように調整した。夜ご飯を食べながら親に電話をかけたけど通話中だった。40分後くらいに掛けなおされて、犬と話す。犬はもう目を閉じる力もなさそうだったが、わたしが話しかけるとまばたきをたくさんしてくれた。楽しかった話をたくさんした。犬の好きだったお菓子、犬の好きだった遊び、犬の好きだった場所、わたしが犬のことをだいすきだってこと。犬がみんなのことをだいすきなことを知っているってこと。
モゾモゾ動いたと思ったらおしっこをしていて、母親がおむつを替えようとペットベッドに寝かせたら、声にならない声を出した。動きが止まってまた失禁した。父親がタオルなどを取りに行くために離れていき、スマホは床に置かれて何も見えなくなった。母親が「もう~!」と抗議したので、わたしは「偉いね、お利口だね」と繰り返した。そのうちに母親が取り乱した様子で犬の名前を呼びはじめて、あ、死んだのかなと思った。でも、まだ死んでないかもしれないから、わたしも何度も名前を呼んだ。何も見えなかったから判断できなかった。
姉もいるグループLINEで電話をかけなおす。今度は犬が映されていた。犬が死んでいるのかいないのかがわからなかったから、わたしはとにかく必死になって名前を呼び続け、画面の向こうの犬を食い入るように見た。でも、親と姉が「頑張ったよね」みたいな話をし始めたところで、もう何も話したくないなと思った。犬が頑張ったか頑張ってないかなんてどうでもよかったし(頑張ったに決まっている)、犬のことを他人と話す気にもなれなかった。

 

何もできなくてごめん、とも思うし、何もできなくてごめんなんて謝るのも違うと思った。声が届いていたと思いたいけれど、わたしがあの子のためにできたことがたくさんあったと思いたいけれど、それに何の意味があるんだろうとも思う。間に合ってよかったなと思う。電話越しでも立ちあえてよかったと思う。姉ではなくわたしが電話しているときでよかったなと思う。そんなことを喜んでいいんだろうかとも思う。
過不足なく、犬の気持ちを受け取りたかった。愛情の深さや大きさを誰かと比べる物差しは存在しない。それがわかっていても、犬が死んだ直後はそれをやりたくてたまらなかった。犬にとってわたしが特別だったと思いたかった。待っていてくれたと思いたかった。そんなこと、わたしが自分を慰めるために考えているだけで、何の意味もないってちゃんとわかっているのに。でも、父も母もわたしは犬にとって特別だったと言ってくれた。姉の声には一切反応しなかったのに、わたしの声には反応していたと教えてくれた。じゃあ、本当に犬にとってわたしが特別だったなら、わたしがそれを見ないことは、犬の気持ちを取りこぼしていることになるのかな。答え合わせは一生できない。それがやっぱり一番くやしくて、悲しい。

いらいらしたし、悲しかったし、くやしかったし、しばらくは全然犬の話をしたくなかった。犬は2匹とも、わたしのことを愛してくれて、わたしが犬のことを傷つけるわけがないと信じてくれていた。なんだかずっと庇われて、守られていた。猫もわたしのことを愛して信じてくれているだろうけど、この子を守るのはわたしの方で、逆じゃない。犬は違った。ふたりがいないことが怖かった。


今はもう、大丈夫。なにもわからなくても、誰かと比べたりしなくても、この世界に犬がいなくても、大丈夫だって思える。犬がわたしのことを愛してくれたことを知っている。大事にする方法も、信じることも、犬が教えてくれたから知っている。わたしもそうやって自分のことを大事にできるし、他人のことを愛せる。犬にできることってもうそれしかないからね。だからわたしはそれをやる。
あとね、やっぱり犬はわたしにとって特別だったよ。答え合わせはもうできないけど、ていうか生きてたってそんなこと聞けないけど、犬にとっても多分そうだった。母犬はわたしにとってもお母さんだったし、犬はわたしにとってのきょうだいみたいだった。一緒にいられてよかった。

 

こんなこと絶対に書く必要はない。公開する必要はもっとない。でも、わたしが本当にあの子たちのことを愛していたことも、愛されていたことも、あの子たちのことをたくさん考えたことも、これからも忘れたりしないことも、あの子達にもらったものをちゃんと抱えて生きていくってことも、友だちには知っておいて欲しいのかも。
読んでくれてありがとう。それからできれば覚えていて。わたしに素敵な半分がいたってこと。

でも愛は?

 

先日ゾーヤ様を愛しているという話を書いたけど、振り返ってみるとわたしは愛しているキャラクターについて何度も書いていた。過去のエントリを読むと文章が幼くて恥ずかしい。もしかしたら、数年後にこのエントリを読んで同じことを言っているかもしれないけど……。まあ、そういうわけなので恥ずかしがるのはやめにしよう。

 

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共通点としては「行動することがわたしにとっての愛だと思う」みたいなことを言っていることで、そういう基本的な姿勢は数年前から変わっていないらしい。「行動することが」というよりは、貰ったものを大事に抱えて、わたし自身の生き方に反映していくことが愛だと思っているのかな。

 

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ここではキャラクターを「自分が愛してもらいたかったように愛していることがある」みたいな話をしていたけど、逆もしかりで、キャラクターの世界への態度を自分のなかに取りこんでいることもあるな、と思う。そうやって愛してもらってうれしかったから……。念のためつけたしておくと、ここでいう「愛してもらって」はわたしに彼ら・彼女らが愛を向けてくれた場合を仮定した妄想の産物ではなくて、キャラクターが大事にしていることや言葉から勝手に受け取っているものだ。

 

以前、友達に「好き」と「愛してる」がわたしの中では違うものだ、という話をした。わたしは「好き」よりも「愛してる」の対象が広いのだといったら、「あなたの言ううすい博愛みたいなものは私にはなくて」みたいなことをちらっと言われて(これは実際にこういうワードチョイスだったかは覚えてないからニュアンスが違うかもしれない)、うーん? と思ったんだよな。

流石に道行く人全員のことを愛しているわけではない。いや、ある意味では愛しているが、それと友達に告げる「愛してる」はちょっとちがうな~と思う。友達には関係性がある。キャラクターにあるのと同じく、わたしと友達の間の関係性が、唯一無二のものとして存在している。それを踏まえて告げる/告げられる「愛してる」には、単にその言葉の持つ辞書的な意味合い以上の意味が発生する。

 

人びとは真に話すということは、単に何かを言うにとどまらず、何某が何某に何かを言うのだということをあまりにも忘れている。すべて話すという行為には、話し手と聞き手があり、この両者は言葉の意味と無関係ではない。両者が変われば言葉の意味も変わるのである。二人が同じことを話しても、言われていることは同じではない。

オルテガ「大衆の反逆」白水社

 

わたしが先日のエントリを経て完全に悟りを開き、ゾーヤ様を好きだという他者に対して嫉妬をしなくなったのは、ここを腹落ちさせられたからだと思う。わたしのゾーヤ様を愛するやり方と全く同じ愛し方を、他の人はできない。

あと、わたしの「愛してる」は、わたしのもっていた「博愛」という言葉のイメージとはずれていた。もっと激しいものだし、わたしのこの姿勢が自然発生的なものではないという意識がそう思わせているのかな。こういう愛し方、っていうか姿勢を、誰からもらったものかと言われたら、やっぱり『ピングドラム』かな……。あとは多分、高校時代に読んだ本のいくつかが影響を与えているのだろうが、残念なことに当時のわたしがきちんとメモを残してくれていなかったせいで、出典があやふやだ。たぶんカントの『実践理性批判』だと思うのだけど(違ったらごめん……今度読み直す……)、そこには下記のようなことが論じられている。

 

自然が人間の心にともし、自己愛に由来する非常に強力な衝動を抑えることを可能にしているものとは、人間性というソフトパワーでもなければ、か弱い慈愛の閃光などでもない。それは、そのような状況においてより強力な力を行使する、強制的な動機、すなわち、理性、原理原則、良心、心の内なる者、偉大な判事、自らの行動の決定者なのである。

カント『実践理性批判光文社古典新訳文庫

 

他にもあるのかもしれないけど、今思い出せないから思いついたらしれっと追記していこうかな。つまり、このエントリにも書いたけど、

 

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わたしは自分が考えて、選んでわたしの「ただしさ」を背骨にしているということにかなり誇りを持っていて、友達の話を聞いたときには、その言葉とわたしが誇る認識の間に差異があるように感じたから「うーん?」と思ったんだと思う。解明できてよかったね。ウン!

ちなみに「激しいものだ」と思った瞬間に思い出していたのはカミュの戯曲の一節だ。

 

「私は彼らを愛しているわ」

「君はまたどうしてそれを、そんな激しいもののいいいかたでいうんだ?」

「私の愛が激しいからよ」

 

同じく。ヤネックとドラ。

ヤネックがもの静かに、「でも愛は?」

ドラ「愛ですって、ヤネック? 愛なんかなくてよ。」

ヤネック「ああ! ドラ、ぼくには君の心がわかっているんだ。その君がどうしてそんなことが言えるんだ?」

「あまりに血が流れすぎたわ。残酷な暴力だらけだわ。正義をとても愛しているものには愛の権利はないわ。彼らは、私のように、みんなまっすぐだわ。顔を上げ、眼は一点を見つめて。こんな猛だけしい心に、愛が宿ってどうなるというの? 愛は静かに顔をうなだれさせてしまうわ、ヤネック。そうして私たちはその首を切ってしまうのよ。」

「でもドラ、ぼくらは人民を愛しているよ。」

「そう。私たちは大きな不幸な愛で彼らを愛しているわ。でも人民は、私たちを愛してくれているかしら? 私たちが彼らを愛していることを知っているかしら? 人民は黙っている。なんという、なんという沈黙なのかしら……」

「だが、それこそが愛なのだ。ドラ。お返しを期待しないで、すべてを与え、すべてを犠牲にすることが。」

「多分ね、ヤネック。純粋で、永遠の愛だわね。事実、それこそ私の身を焼きつくすものだわ。でも時には、愛とはもっと別なものではないか、モノローグではいられなくなることではないか、往々にして答えなんかなに一つないものではないか、と思ってしまうことがあるの。私は、そんなことを想像しているのよ。わかって? 顔は静かにうつむき、心は猛だけしさを忘れ、眼には皴がより、腕は少し開かれて。世界の怖ろしい悲惨なんか忘れてしまい、そうよヤネック、最後には一刻、ただほんの一刻だけど、エゴイズムに我が身をゆだねさえして。そんなこと思って?」

「ああドラ。そんなものこそやさしさと呼ばれるものだ。」

「あなたはなんでもわかって下さるのね。それこそやさしさと呼ばれるものだわ。でもあなたは、やさしさで正義を愛していて?」

ヤネックは黙り込む。

「あなたは、あなたの人民をこうしたうちとけた気持ちで愛していて? それとも、復讐や反逆の火を燃やして愛していて?」

ヤネックは黙っている。

「知っているのね。そうして私は、私のことはやさしく愛してくれていて、ヤネック?」

「ぼくは君を、全世界よりも愛している。」

「正義よりも?」

「ぼくには君らを分けることはできない。君と、組織と、正義とを。」

「知っているわ。でも答えて。どうか答えてちょうだい。ヤネック。私に答えてちょうだい。孤独のさなかで、あなたは私を優しさから、エゴイズムから愛してくれていて?」

「ああ! ドラ、死ぬほど君にそうだと言いたいのだ。」

「そうだといって、お願い。もしそう思っているなら、もしそれが本当ならそうだといって。組織や、正義や、世界の悲惨や、縛られた人民の目の前でそれを言って! どうかお願い。子どもたちの苦しみや、延々とつながれる牢獄の前で、たとえ首を吊られ、死ぬほど鞭うたれている人たちがいようと、どうかそういってちょうだい。」

ヤネックは一瞬蒼ざめる。

「お黙り。ドラ、お黙り。」

「おお! ヤネック。あなたはまだそれを言わないわ。」

一瞬の沈黙。

「ぼくにはそれを言うことができない。けれど、ぼくの心は君のことでいっぱいだ。」

彼女はまるで泣いているかのように笑う。

「そうね、いいわ、あなた。ききわけがなかったんだわ。私だって、私だってそんなこといえなかったわ。私、正義や牢獄のさなかで、少し堅苦しい愛であなたを愛しているわ。私たち、この世のひとではないのね、ヤネック。私たちの役割は、血と、それから冷たい絞首刑なのね。」

カミュ「反抗の論理:カミュの手帳Ⅱ」新潮社

 

こう……ここでこれを引用するのって……みたいなところはあるな。そしてわたしは別に彼らと同じ愛を持っているわけではないし……。でも共通している部分もある。

 

最近、物語やアニメ、ゲームのシナリオを足掛かりにしながら話をすることの可能性について考えている。わたしは感情的なケアが苦手な方だと思うのだけど、同じく自分の語りにそういうものを付与することも苦手なんじゃないかと思う。だから、観念の話ばかりをしようとするとナラティブの共有がうまくできなくて、相手の理解の仕方や特性によっては誤解を招いてしまったり、うまく言いたいことを伝えられなかったりするのかなって。すでに誰かが作って共有してくれているナラティブを想像の足掛かりにすることで、空中戦をしなくてよくなる部分もあるのかな、と考えている。言葉で伝えきることが難しい部分を補うというか……。恩師がアカデミックな文章に限界を感じている、と言っていたけど、こういうところなのかなーと思っている。恩師とわたしは喋り方が似ているので、わたしが悩んでいることは大体恩師も同じように悩んでいて、それこそ「あなたはなんでもわかってくださるのね」になりがち。その結果1000文字単位のメッセージをメッセンジャーで送りあう羽目になる。長すぎ。

 

 

白水社のはなかった。絶版になってたかも?)

 

 

 

卵の殻を破らねば、

「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなくてはならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」

ヘルマン・ヘッセデミアン新潮文庫

 

無期迷途というアプリゲームにハマっている。熱を上げているゾーヤというキャラクターは、絶望の中で何度も立ちあがってきた人だ。彼女には暴力の才能がある。人を惹きつけるカリスマ性がある。彼女は冷静に状況を判断することができて、なにより、ずっと未来のためにたたかっている。

 

「起き上がれと彼女に言われた。『この世は理不尽なことばかりだ。だが声を上げることをやめず、頭を下げない限り、その人には戦う資格がある』って。」

無期迷途メインストーリー「主なき洞窟」4-8『軍団長』

 

わたしはさ、なんかもう……嬉しかったんだよな。この言葉をゾーヤが言ったと聞いたとき、ああ、知ってるな、とすら思った。わたしはこの人のことを本当に愛している。わたしが大切にしようと思っていることを、この人も大切にしてくれるんだと思って嬉しくなった。

どう言葉にしたらいいのかわからないけれど、彼女の参謀であるケルシ―が言ったように、彼女は灯台みたいなものなのかもしれない。

 

「普通の人の戦いには、常に弱さや悔しさ、ためらいがつきまといます。どんなに素晴らしいビジョンを持っていても、どんなにそれを貫こうとしても、失敗を恐れ、失うことを恐れる人々は、何度も戦場から逃げ出してしまいます。/常に強い意志を持ち、何も恐れない人などあなたしかいません。誰もがあなたのように強いわけではないのですよ。/あなたがいたから、私たちは何度も何度も立ちあがることができました。あなたに会ってから、私はシンジケートでの戦いに意味があると信じることができたのです。」

無期迷途メインストーリー「チラン広場」RE6-11 道のり

 

わたしはゾーヤのようになりたいと思っているし、彼女のことを信じている。わたしもゾーヤに恥じない自分でいたいと思っているし、わたしが声を上げることをやめず、頭を下げず、戦う意思を手放さないことを彼女に信じてほしいと思っている。

 

 

「こと社会運動において、あなたが団体への参画を躊躇うのは、SPEAK UP(過去にわたしが作り、その後抜けた学生団体)での経験が尾を引いているような感じがするよね」、と友達に言われて、そうかもしれないなと思った。わたしはあの学生団体で、人を同じ向きに同じ熱量でそろえておくことの難しさを知った。わたしは確かに創設メンバーの一人ではあったけど、リーダーと言うわけではなかったし、明確な役職も決まっていなかったのに、いつのまにかわたしが仕事を割り振ることになっていた。わたしが発言すればそれで意見は通ってしまったし、わたしのコメントの後には追従するコメントしか書き込まれなくなっていったし、というかわたしが発言しない限りそもそも提案は起こらなかった。なんなら賛否すら二回聞かないと大抵返事は来なかった。なんのためにここにいるんですか? わたしは何人かに個別に働きかけて、わたしの意見が通り過ぎてしまう現状を問題視していること、できればあなたにもリーダーシップをとってもらいたいと思っていることを話した。その人たちは「なるほど、じゃあわたしから話してみますね」と言ってはくれた。でも、(穴だらけの)企画の提案だけをグループLINEに送って、その後のアフターフォローはなかったから、企画は流れていった。

結局のところ熱量が違っているわけで、これはもうどうしようもないな……と思ったから辞めた。お互いのためにならない。辞めた後、数か月経ってからメンバーの一人と話をしたときに、「あなたが抜けた後、数人と話をして、とりあえずスタンプを送りあえるような感じになりたいよね、ってなったんだよね。だから今はスタンプとか送ってる~」って言われて、ハァ……と思った。いや、わたしが感情的なケアを不得手にしていることも要因だったのだろうというのは、わかるよ。わかるけど、なんでこの期に及んで「あなたが怖かった」みたいなこと言われてるんだろう。わたし、あなたにも相談したよね? その時は何にもしようと思わなかったのに、今はスタンプで何とかしようと思ってるんだ?笑。スタンプってすご~い。もっと早く送れば?

 

話が逸れたな。だからさ(何が?)、わたしは全然ゾーヤ様には似てないの。ゾーヤ様ならもっとうまくできるよ。でも多分、わたしがずっと前に進もうとしていたことを、ゾーヤ様は評価してくれる。そういうことを考えながら、彼女のことを愛している。(もう被っていた猫が剥がれてわたしがゾーヤのことをゾーヤ様と呼んでいるのが皆さんにバレてしまいましたが、まあいいでしょう。)

わたしは今、あんまり積極的には社会運動に参加していない。だから彼女の言うことを、彼女の姿勢を痛いほどわかると思うのは、実際には過去の自分を振り返っているだけなのかもしれない、と思う。でも、世界にそうした形で働きかけていないからと言って、まったくなにもしていないということにはならないじゃないか、とも思う。

 

「ぼくたち、すなわちきみとぼく、それから数人のほかの人たちが世界を更新するかどうかは、やがてわかるだろう。しかし、ぼくたちの内部では世界を毎日更新しなければならない。」

ヘルマン・ヘッセデミアン新潮文庫

 

「敵対しあいながら人間はイメージや幽霊をつくり出せばいい。イメージや幽霊を使って、人間はお互いに最高の戦いを戦えばいいのだ。善悪、貧富、高低、その他のあらゆる価値の名前。これらを武器にするのだ。戦いの目印にするのだ。生はくり返し自分を克服するしかないのだ!」

フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラ<上>』光文社古典新訳文庫

 

人間はどうせ変わるのだから、変わるんなら少しでもわたしが「良い」と思える方向に変わっていきたい。最期に後悔なんて絶対にしてやるものか、と思うから、いつだってわたしがその場で選びうる最善だと思える選択肢を選びたい。勉強を続けるのも、こうして時折何かを書いたり、だれかに意見を聞いたり、だれかに考えていることを話したりすることも、わたしが選んでわたしがやっている、世界へ働き掛けるための方法の一つだ。高島鈴は『布団の中から蜂起せよ』の中で生存は抵抗だ、と言った。わたしもそう思う。わたしたちが生きていることそれ自体が権力への抵抗になるように、中指を立てることは今だって絶対にやめてない。

 

「銃声、聞こえちゃった?」私が尋ねた。

「そりゃね」トーマスが半ば目をつむり、両手をうつろに上げ、天を仰いだまま小刻みにうなずいた。「あのね、俺、二人の話聞いてないよ。いや、聞いてたけどほら、俺、日本語わかんないから。え、でも、だめ? 死体、見ちゃったから? 俺も殺す?」

「うん、それがいいかも」私は拳銃を構えなおした。

「え、まじで? ていうか、なんで? さっきまですっごく仲良さそうにしてたのに、なんでいきなり殺してんの? 女って怖ぇ」トーマスは細く目を開いてちらちらと私と遺体のトーマスをせわしなく見比べた。

あっちょっと、今のは聞き捨てならない、女って怖ぇ? なんでそう一般化しちゃうわけ? 女が怖いんじゃないの、私が怖いの、私という個人が怖いんだよ、ほら言い直せ」

藤野可織ピエタとトランジ』講談社文庫

 

あなたっぽいよね、とこの一節(他のページももらったけど)が送られてきたときは笑ったけど、『ピエタとトランジ』を読んだ後だと、この物語を読んで友達がわたしのことを思い出してくれるというのはかなり最上級の誉め言葉だなと思う。

読んでいない人のために説明しておくと、『ピエタとトランジ』は、女と女が死ぬまで突っ走っていく物語だ。身の回りで殺人事件が起こる特異体質の天才探偵・トランジと、彼女の親友で高校の同級生のピエタ。トランジの周りでは常に殺人事件が起き続けるが、ピエタだけは死なない。彼女たちは何度も共にいることを選び、死の匂いが充満する世界の中を生きていく。「死ねよ」「お前が死ねよ」と言いあいながら。ピエタもトランジもイカしたいい女だ。彼女たちが出会った高校生のころから、80代の老婆になるまでずっと。

わたしはトランジになろうとおもうし、ピエタになろうと思う。もちろんそれは身の回りで殺人事件が頻発する体質の天才探偵になりますという宣言ではない。彼女を愛する同級生になろうという宣言でもない。ピエタとトランジはクィアなババアだった。あんな風にイカしてなくたって、クィアなクソババアにはなれる。腰が曲がったって足が弱ったって権力に中指は立てられるし、唾をかけることだってできるはずだ。わたしたちの内部で世界を壊して更新することに今よりずっと時間がかかるようになったって、諦めないことだけはできる。わたしはゾーヤ様のことを、そうやって愛している。

 

 

 

 

 

 

Modern Love

わたしはただしさのことを多分、愛している。ただしさとは、他者に対する誠実さであり、自分を損なわないようにできる強さであり、ただしさとは、うーん……。
好きというには情熱は薄いが (本当か?) 、好きでないというには肩入れしすぎているキャラクターの口癖が「ちゃんとしてください」なのは、なんだかちょっとおもしろいな〜と思う。わたしは母親に「お前だけが正しいと思っているのか」と詰られることが多かったし、先日は友人にも「あなたにはわからないかもしれないけど、世の中にはこういうちゃんとしてない人間もいるの。ゆるして」と言われたばかりだ。


わたしはわたしのただしさが、絶対の正義であるとは言わないようにしている……と思う。わたしが何事かを話す時、それはわたしがただしいと思っているということを話しているだけで、あなたにとってもただしいと言いたいわけではないのだ。だけど、あなたにとってこれがただしくないのなら、それはどうして? あるいは、「ただしい」と言いながらもあなたがこれをあなたのただしさにはしないのは、どうして? とは思っていて、自分の納得のためにそこを突き詰めていこうとする態度は、もしかしたらただしさを相手に押し付ける行為として取られかねないとは思うし、実際「なぜ?」と問いかけることは悪癖なのだろうなあと思う。言葉ですべてを表現できるはずで、それを差し出すこともできるはずだと決めつけるような態度も、また。


さらに言えば、もしかしたら、わたしの奥底にはわたしのただしさのことを絶対的な正義だと思っていて、それを相手に押し付けようとしているわたしがいるのかもしれない、と思う。いるのだ、と断定することは簡単で、いないのだ、と言うのも同じことだ。実際のところはわからないから、わたしはこれを可能性に留めておいて、曖昧なまま警戒していようと思っている。


しかし、少なくともわたしがわたしのただしさを元に誰かの行動に疑問を抱いて行動原理を問う時、わたしはその人のことを責めようとしているわけではないのだ。だから謝らないで。わたしはすくなくとも、あなたを断罪して気持ちよくなりたいわけではない。これは可能性も否定しておく。これは本当に、ない気持ちです。
※わたしはできれば断罪して気持ち良くなることをやりたくなくて、だから勝手にジャッジするようなミームも使いたくない。これはわたしのただしさの話です。誠実さの話です。


さて、わたしはここまで「ただしさ」と「正しさ」を分けて描くように努めてきたけれど、それには当然意図があってのことです。これもまた、わたしのただしさの中の一つのルールで、「言葉を大切に使おう」というものだね。
「正しさ」のことは別に好きではないし、わたしは「正しい」人間では無いと思う。わたしは最低なジョークで笑うし、嫌いなものに中指を立てるのが好きだし、待ち合わせには9.9割の確率で遅刻するし、口が悪いし、露悪的なものが結構好きだし、婚姻制度のことはカスだと思っているし、天皇制は廃止するべきだと思っているし、安倍晋三の死は悼まないし、エリザベス2世の冥福を祈ることもないし、pixivを使ったりユニクロで服を買ったり無印で服を買ったりするし、姉のことは嫌いだし、母親のことも苦手だし、父方の祖父母には連絡すらとっていないし、親に立て替えてもらっている金もまだ返していないし、猫のトイレの掃除の周期は適当だし、実家に帰って安心した〜!みたいな気分にはまったくならないし、あとは何? とにかく、わたしは全然完璧に「正しく」はなれないし、そういう大文字の「正しさ」とか「普通」には興味がなくて、むしろクソくらえだと思っている。


わたしがただしさのことを愛しているのは、わたしがわたしとして生きてきた中で、考え選び取ってきた背骨であるからだ。もちろん周りからの影響がなかったとは言わない。「正しさ」に影響を受けた部分もあるだろう。それでも、いくら「正しさ」が「正しい」と言っても、わたしがただしくないと思ったものはただしくない。
わたしがあなたのただしさについて聞く時、わたしはあなたのただしさに対して、自分のそれに向き合う時と同じように向き合いたいと思っている。つまり、わたしはあなたがどうしてそう思うのか、どのようにそれを選び取ってきたのかを聞きたいのだ。「正しさ」ではなくて、あなたのただしさのことが聞きたい。あなたのただしさについて聞いて、わたしはちょっとあなたに失望するのかもしれない。あなたの意見に傷つくのかもしれない。わたしはもしかしたら、あなたのただしさに質問するふりをして、あなたのただしさを崩そうと試みるかもしれない。そしてわたしのただしさも、そうやって人を傷つけてしまうのかもしれない。母も、友達も、もしかしたら傷ついていたのかも。
その先に、「ただしさとは、うーん……」の続きがあるのだと信じたい。ただしさは、できれば正しさも、閉じられた概念ではなくて、常に開かれた概念であって欲しいから。


先日のエントリで、あなたの友達になりたいと書いた。同じような意味で、あなたの味方ですと言うこともある。
※「あなたの味方です」と言う時、必ず枕詞には「この先わたしがあなたに何を言っても、あなたがそれに何を返しても、そのコミュニケーションがわたしたちの関係性を変えてしまったとしても」をつけたいと思っている。これは誠実さの話です。これもただしさの話です。

味方だと言うからには敵がいるはずで、それはあなたを傷つけようとするものだ。人間であるかもしれないし、人間の一部であるかもしれないし、人間と人間が作り出してしまった関係性であるかもしれないし、人間が細胞になっている社会かもしれない。
味方だと言うからには、一緒に戦う覚悟がある。あなたが困っているなら助けたいと思う。

けれど、わたしはあなたと同じただしさを共有しないかもしれないし、あなたのただしさを批判するかもしれないし、あなたのただしさが向く矛先を掬おうとするのかもしれないし、それでもわたしは、あなたを傷つけたいとは思っていない。そういう話をしています。

Modern Love

Modern Love

AFTER’95

 

わたしの中学の校長は、ことあるごとにわたしたち学生に「あなたが素晴らしいのは、あなたがあなただから」だと言った。あなたたちはかわいい、それはあなたたちが勉強ができるからでも、運動ができるからでも、先生たちの言うことをよく聞くからでもない、あなたがあなただから、私にとってはかわいいのだと言ってくれた。

そして、「かしこい人になりなさい」とも言った。本当のかしこさとは、単に勉強ができるということではない。あなたたちが履いている体育館シューズを見なさい、あなたたちの手元にそれが届くまでに、デザインを考え、機能性を追求し、布を縫い、包装し、届けてくれた人がいる。あなたがその靴を履くことができるように、それを買うためのお金を稼いでくれた人がいる。その苦労を想像できること、そしてそれを思いやることができること、それが「本当のかしこさ」なのだと言った。

 

先日読んだ宇佐美りん『くるまの娘』で、主人公のかんこは両親と共にいることを選んだ。彼女と同じように傷ついてきて、傷つけられてきて、彼女を傷つけ続ける両親と共にいることを選んだ。彼女はそれを象徴するかのように車に住んだ。

 

この〈くるま〉は、『輪るピングドラム』の中では、〈箱〉に喩えられていたものだろう。過去の呪い=絶望のメタファーであるサネトシはこんなセリフを口にする。

「人間っていうのは、不自由な生き物だね。何故って?だって自分という箱から一生出られないからね。その箱はね、僕たちを守ってくれるわけじゃない。僕たちから大切なものを奪っていくんだ。例え隣に誰かいても、壁を越えて繋がることもできない。僕らは皆一人ぼっちなのさ。その箱の中で、僕たちが何かを得ることは絶対にないだろう。出口なんてどこにもないんだ。誰も救えやしない。だからさ、壊すしかないんだ。箱を、人を、世界を。」

サネトシ=絶望のメタファーは、彼の凶行を止めようとする荻野目桃果=愛のメタファーに「君はすべてを救えない」と言う。じゃあ、もう半分を救うのは誰だろう。

 

家族というパッケージ=〈箱〉=〈くるま〉の中で、加害とコミュニケーションの境目は曖昧になることがある。わたしの恩師はその原因を「ファミリー・エゴ」(家族という枠内でしか機能しない発言や思考を生み出すエゴ) と呼んだ。「ファミリー・エゴ」でパッケージングされた〈箱〉=〈くるま〉の中では、情動が前景化する。そのため、そこは論理(的整合性)が通用しない〈場〉にならざるを得ない。だから、論理的に立ち向かおうとする奴には負け戦が約束されているようなものだ、と。

「ファミリー・エゴ」から生じる「甘え」は、人の弱み(良心)に無作法に踏み込んでくるから、多くの場合〈暴力〉として作用する。通常は、容認か、突き放すかの二択だけど、家族の場合はそのどちらも難しい。どちらに転んでも、良心の呵責に苛まれることもあるだろうから、一見「出口なんてどこにもない」のだ。だから、問題から一旦距離を置くのも手段の一つなのだろう。

 

だが、突き放すことと距離を置くことが同一視されてしまう場合、それは手段の一つにカウントできるのだろうか? 少なくとも多分、わたしの母親はそう捉える。かんこの両親も、かんこも、家=〈くるま〉から距離を置いた兄や弟を「家族を捨てた」と捉えていた。

わたしが仮に「家族を捨てた」として、あるいは距離を置いて逃げたあとそのまま逃げ切ってしまったとして、過去のしがらみからも逃れ切ることができるだろうか。良心の呵責を捨て去ることができるだろうか。

わたしには多分、できない。しかし、〈くるま〉の中でじっとしていることもできない。沈むことがわかっている泥舟でじっとしているのは趣味じゃないしね。

だから、どっちかを選ぶのはやめにした。どっちも、或いはどちらでもない選択肢として、自分が諦め切れるまで、諦めないということをやろうとしている。わたしがこの先もずっと、生きていくために。

 

先日両親に話をしたのはそのためだった。

わたしの中でまだ、ほどけていないこと、切り分けられていないことがおそらくたくさんあって、これからそれをやっていきたいと思っていること。そして、どこにどのように傷ついたのか、どうしてほしいのかを言葉にしたいと思っていること。そのため、現時点で両親に期待することはないが、今後このように話し合いをしようと試みたり、自分の考えたことを伝えたりするかもしれない。その時は、できればわたしの言うことを理解しようと努めてほしい、それは従ってほしいと言う意味ではなく、わたしが独立した個人として考え、悩み、導き出した結論であることを尊重して、受け取ろうとしてほしい。と、いうようなことを言った。

伝わったかと言われると、正直微妙なところだ。恩師も言っていたが、多分わたしと両親には共通の理解 (and/or 言語/能力)  がないんだと思う。それでも、わたし自身が納得するために手を伸ばしたいと思っている。今は少し距離を置いているけれど、まだ諦めてはいない。

 

劇場版 輪るピングドラム RE:cycle of the PENGUIN-DRUM[後編]僕は君を愛してる の中で、サネトシに絶望を突きつけられた少年たちが「それがどうした!」と叫ぶシーンがある。そして彼らは絶望を塗り替えて、次に向かいたいところへ走っていく。途中で限界にぶち当たって、それ以上進めなくなった時に、その壁を破るのが荻野目桃果=愛である。彼女は「イマジン」と叫びながら限界を突き破って、「きっと何者かになれる」と言い放つ。そして、サネトシを捕まえて彼女は言う。何度やっても無駄だと。世界は絶望に飲み込まれたりなんかしない、と。映画の中ではペンギンの赤ちゃんの格好をしたサネトシが、いつもの調子で答える。「だよね」って。

 

愛に限界があるのだとしても、それで全ては救えなくても、やり方が間違っていたとしても、それでも手を伸ばすことを諦めないでいられたら、きっとわたしは生きていける。過去に呪われずに、わたしのままで、「愛してる」をつないでいける。

何度絶望を突きつけられても、時にそれに救われて、それすら愛して生きていける。

ピングドラムをありがとう。愛してるよ、いつだって、一人なんかじゃない。

 

以前、こんなことを書いていた。

「何者にもなれない」というのは、たとえばウルトラマンにはなれないとか、五条悟にはなれないとか、テレビで輝くあの俳優さんにはなれないとかそういうことなのか、それとも「自分以外の何者か」にはなれないよっていう意味なのか、それっておんなじことですか? 

なんていうか、役を求めるのは違うよなっていうのと、「自分以外にはなれなくても自分ではいられる」みたいなところで、わたしの中には差があるような気がしています。どうかな、一緒のことですかね?

tabetyaitai.hatenadiary.jp

 

うん、違うよ。だからわたしたちは「きっと何者かになれる」のだ。大切な誰かに、まだ大切ではない誰かに、薔薇を手渡すことで。見つけることで。それでも幸せになろうとし続けることで。ウルトラマンになれなくても、五条悟になれなくても、荻野目桃果になれなくても、「陽毬のお兄ちゃん」になれなくても、あなたのかわいい友達にはなれる。そしてたぶん、あなたの友達はほんとうに賢い方がうんと素敵で、立ち塞がる壁だって天井だってぶち破ることができて、きっとどこにでもいけるのだ。

 

無題


書きたいが、書くべきではないかもしれないし、書けるかもわからないと思っていること、わたしは安倍晋三の死を悼まないということです。同じように、石原慎太郎の死も悼まなかった。これからもきっと悼むことはないでしょう。

殺人はいけません。それは法で定められたルールだし、誰かの生きる権利を奪うことは社会生活を営む上で許容されてはならないと思います。殺人も、暴力も、テロリズムにも、わたしは反対の立場をとります。
そして、今回のことで安倍晋三の命が失われたことを残念に思います。今後、彼の罪を明らかにすることが困難になったと言うただ一点において、残念に思います。

あの人たちに人権を踏み躙られてきた人がいること、今もなおヘイトクライムの矛先を向けられる人たちがいること。権力を濫用し、説明責任を果たすことはついぞなかったということ。
どうしてあのひとたちの死を悼むことができるのか、わたしにはわからない。人が死んだニュースにショックを受けることと、あのひとたちの死を特別に、こんな形で悼むことは、絶対に区別されるべきだ。じゃあ、自殺した財務省の官僚は? やまゆり園の人たちは? あの人たちが撒き散らしたヘイトクライムの矛先になった人たちは? 同じように悼むべきだ。同じ人間なんだから。

そういうことをずっと考えている。
本当に人の死を悼むなら、わたしたちにできることは差別や暴力を許容しないための社会に向かって歩いていくことしかない。それがどんなに険しい道のりでも、あなたと友達になるために歩いて行くしかない。
わたしは民主主義を諦めたくないよ、安倍晋三とは違って、わたしは、差別のない世界や平和を希求し続けたい。それが終わったらきっとようやく、あの男の死だって悼むことができるだろう。



追記:
実のところ、ご立派に民主主義だなんだと書いたがあの男と友達になれたとは思わんし、死んでくれてありがとうとすら思う。わたしがテロリズムを否定する理由も、それが間違った手段であることだけではなくて「キリがないから」の方がでかいんだよな。しかし、そういう憎悪が繋がれていくのは悲しいことだろうと思うよ。だから民主主義の中で、全ての個人の自由と権利を尊重しながら生きられるようになって欲しい、じゃあどうやって? そこが1番の問題なんだけど。

Skin-Deep Comedy

 

 


最近ずっと、自分がキャラクターと人間を同じように扱っていることについて考えている。わたしはキャラクターを非実在の存在として捉えた上で、実在の存在として扱う癖があるのだが、一体どういう捻れ方をしたらそんな風に話すようになるのか、自分でもよくわかっていない。

 

たとえば、今ハマっているApex Legendsのアジャイ・シェに対して、誇り高く戦い続ける彼女の心を誰が守るのだろう、と心配している。 10代にして、彼女のことを守ってくれるホームもファミリーも失って、放り捨てて、敵に回して、24歳の今もなお理不尽な世界で闘い続けている彼女のことを、誰が守るのだろう? 心細くはないだろうか。 投げ出したくはならないだろうか。

答えは簡単、ノーだ。彼女はそんなことは思わない。少なくともその描写がない限りは。理由も単純。彼女はゲームのキャラクターに過ぎないからである。

それでもわたしは、彼女のことを実在する存在であるかのように案じて、愛して、心を砕きたいと思っている。その理由の一つはたぶん、わたし自身がそうやって愛されたかったからなのだ。

 

「なぜわたしだったんだろう」、と思うことがある。大体それを考えるのは、家族のことを思い出す時だ。そこに理由などないことを知っていても、神や運命なんてものを信じていなくても、選択した現在以外に「今」が存在しないとわかっていても、それでも「なぜ」と思ってしまうタイミングが、たしかに存在している。

守って欲しかったな、と思う。どうしてわたしが手を離さなければならなかったのだろう、と思う。できるかできないか、で聞かれたら、できる。わたしは ひとりで立てるし、わたしはひとりで歩くことができるようになった。良くも悪くもたぶん、家族のおかげで。

それでも、「大丈夫か」と聞いて欲しかった。わたしの覚悟やわたしの強さを信じたままで、それでもなお案じて欲しかった。

アジャイのことを案じるのは、わたしがそうやって愛されたかったからなのだ。愛して欲しいからなのだ。わたしは彼女を愛するふりをして、自分の心を慰めているにすぎない。自分のことを愛そうとしているに過ぎない。……のではないか、というのが今のところの仮説ね。

 

あー、これってアレ? 分析しすぎのやつ? 過度な分析はやめなさいって言われてるんだけど……でも多分、これって呪いじゃなくて祝福だと思ってるんだけど、どうかな。

キャラクターに限らず、わたしは物語を鑑賞してそこから何かを得ることが好き。そうやってわたしの人生を拡げてきたし、愛してきた。わたしが愛せなかったわたしの弱いところを、キャラクターを愛することで愛することができた。

みんなが愛されたかったように他人を愛して、愛してもらって嬉しかったように他人を愛していけば、世界はもっといいものになってもいいはずなのに、なかなかどうしてそううまくはいかない。わたしの愛も完全ではなくて、相手にとって足りないものや、激しすぎるものが混ざっている。「なぜ」「どうして」の答えの一つは、きっとそれなのだ。だからわたしには物語が必要で、その欠落を自分で必死に埋めている。短い人生の中で、その欠落を埋め終えることができるかどうかはわからない。それでも、せめて。

 

Skin-Deep Comedy/皮一重の喜劇

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