Prinz von Omurais

推しのことを「推し」と呼ぶことが適切なのか、最近はわからなくなってきました。「好きな人」と呼んでいた時期もあったけれど、いまとなってはそれも違うように思えてしまって。ここでは便宜上推しと呼称します。

 

ヴァージニア・ウルフは『自分ひとりの部屋』で、女性が十分に思索を深めて文章を書くためには、十分な収入と独りになれる場所が必要であると述べていましたが、3月から実家に疎開し、家庭教師で小銭を稼ぎながら家でぬくぬくと暮らしているわたしは、ほとんどこの条件を満たした空間を手に入れたと言えるんだろうと思います。「新しい生活様式」をそこまでネガティブに捉えていないのは、ひとえにわたしがこの「自分ひとりの部屋」での時間を重要視しているからなんじゃないかな。

 

コロナウイルス感染拡大の影響で推しに会えなくなった……より正確に言うならば、会いに行くのを控えるようになった、のほうが適切かもしれないです。公演はやっている。わたしが行っていないだけです。

三月下旬以降、わたしが通っていた(通っていたというほどではない)2.5次元舞台も相次いで閉幕・延期・中止を余儀なくされてきました。7月以降ちらほらと再開され、上演が発表され、またそれが中止されたり延期されたり、はたまた座席数を増やしたりしています。おかしいですね。

わたしの推しは売れっ子なので、なんだかんだと10月くらいまではスケジュールが埋まってます。11月には4thシングルも出す。これから先どうなるかはわからないけど、きっと仕事がなくなって困る、ということにはならないんじゃないかと思っています。少なくとも今年は。

きっと来年も、再来年もそうなんじゃないかなあ。目立って何かやらかさない限りは。ここでの「やらかす」は罪を犯したり、ブランドイメージを傷つける言動をすることを指しています。

そういう状況で、この先幾度となくあるだろう彼を“消費する”機会に対して、どう向き合えばいいのかを最近ずっと考えています。

 

「自分ひとりの部屋」にこもらなくても、自分が彼を“消費している”ことには気が付いていたし、それに対する罪悪感もたしかに持っていました。去年の末頃までのわたしは、正面から接するときはきちんと人間として彼をまなざそうと心がけることで、その危うさを回避したつもりだった。

2.5次元舞台の役者を含め、観客と演者の距離が近いジャンルにおいては、実像と虚像の境を曖昧にすることで成り立つビジネススタイルが多くあって、それが恋愛感情を利用したものであれば「リア恋営業」とか「ガチ恋営業」とか呼ばれるものになるのだろうけれど、実際のところどんな「営業」もさほど変わりはないのだろうと思います。近い距離で手を振ってもらえること、握手ができるイベントがること、ファンと「交流できる」コミュニティが作られること、数え上げればきりがないほどに、虚構が造り上げられる仕組みがあって、わたしたちは恣意的にそれと現実とを混同させられている。夢を見させられている。

そのゲームのテーブルに座ることがただしいのかを、ずっと考えています。

わたしが若い俳優たちを搾取することだけではない。若い俳優と、それを応援しようとする我々の両方から利益を得る人間がいて、彼らが準備したテーブルに並べられた料理を、そのまま食べつくしてもいいものなのだろうか、と。

いや、いいんだと思います。テーブルの料理を食べる経験が楽しいのは、料理が美味しいからだけではなくて、同じテーブルに座った友人との体験の共有、レストランに行くまでのワクワク感、「美味しかったね」と笑いあえること、そういうことを全部含めて「レストランでの食事」なのだと思うから。その欲望がすべて、否定されるべきものであるとはわたしは思いません。

それでも、わたしの「レストランに行きたい」という欲望は、「レストランにいらしてくださいね」と誘う声の持ち主の欲望ではないかと問い直す行為をやめられないでいる。

というか、料理に例えることすら失礼だな、これは。書いていて反省したんですけど、他に適切な例を見つけられなかったんです。ごめんね。 

 

わたしがレストランにいかなくても、レストランは満員で、わたしがレストランにいかなくても、料理は作られて運ばれる。

どんなに愛をささやいても、カエルの王子様のようにオムライスが王子に代わることはない。

変わることの無いオムライスの王子様を幻視していたら、オムライスは冷めてしまうかもしれない。食べられなくなったオムライスに対してわたしができることは、なにもない。

 

推しのことが嫌いになったわけではない。冷めたわけでもない。ただ、オムライスの盛られたテーブルにつくことは少しばかり億劫になったし、感染の危険を冒してまで外食をするつもりはないので(これはわたしが置かれた状況を鑑みての判断である)、レストランに行くこともなくなりました。

推しへ。あなたの知らないところで、あなたを消費してしまってごめんなさい。これからもきっと、わたしはあなたを消費するだろうし、たぶん「わたしが消費しなくなる」ことは、わたしが感じているこの問題を解決する糸口にすらならないでしょう。ごめんなさい。わたしはあなたの人生に責任を負えない。それなのにあなたの肉体を、感情を、切り取って消費してしまうことを、罪悪感を抱きながらもこうして許容してしまう。わたしにはどうしても、この行為を肯定的には捉えられない。文化的な活動がわたしたちの関係を新たなものにしてくれると信じられれば良かった。ままならない。どうしたらいいのかを、まだ、もうすこし、考えていたいと思います。