キレ芸

昨日、友人に「あなたはよくキレ芸してるけど、たまに本気でキレてるときは大概好きな俳優に関連したことでキレてるよね」って言われて笑ってしまった。その友人にも以前に怒ったことあるんですよね、好きな男がバカにされたんで……。

まあわたしは大抵本気でキレてるので、好きな俳優に関してだけ本気で怒っているわけではないんですけどね、全然。

 

昨日、姉の件で姉の友人と母のメッセージの橋渡し役を務めていたんですが、その友人がまあ~~~~~~~~~~~~~よくわかんない人で。よくわかんないというか、いや、ある意味わかりやすいんですが。

姉の件、もうめちゃめちゃすぎて書くのが面倒だな。まあ細かいところは話の本筋に関係ないので省略します。とにかくそれでやり取りをしていた時に、彼女が「わたしは裁判官ではないので何も判断を下さないし、お姉さんの行動にどうこういうつもりもない」みたいなことを言い始めたんですよ。

 

いやわかった!わかったの、この人が何もしたくないということは理解した。

でもわたしにはあんまり「なにもしたくない」という感情になることがないので、よくわからなくて。

特に自分が大切に思っていたり、仲良くしている相手に対して、機を逃して言いそびれることはあっても、自分の意志で「なにもしない」ことがあり得るんだな、と思っちゃって。

俳優の件も含め、たぶんわたしは、そういう愛し方しか知らないんだなと思いました。そういう愛し方しか知らないというか、そういう愛情の示し方を一番にしてしまうんだろうなって。

それがいいとか悪いとかではなくてね。

 

なんならわたしは機を逃して言いそびれたけど気になっていること、本当は言いたいし、わたしに対して思うところがあるのならおしえてほしいと思う。

それを表に出しあっても、それだけで相手を嫌いになったり、相手そのものを否定するわけじゃないよ、っていう信頼もあるんだろうな。

 

友人がリアコの話をブログに書いていたけど、愛情にもいろいろあるし、示し方にもいろいろあるよね。わたしのこれもひとつの例であって、愛情のかたちも示し方もこれだけじゃない。いつも同じ形をとるわけじゃない。

そもそも「愛」だの「恋」だのという感情の定義から始める必要があると思うのだけど、わたしにとってそれはかなり包括的な概念なように思えてしまいます。

例えば、性欲だったり、友愛だったり、親愛だったり、その他様々な精神活動を「愛」だとか「恋」だとか言って恣意的に線を引いているだけなのではないかなと。もちろん相手が変われば同じ名前でも感情は変わるし、タイミングによってもそう。だからそもそも定義づけに意味がないともいう。本末転倒だね。

となると不思議だよね、わたしたちがたかだか2~3文字で設定された一つの名前で、感情を共有しているように思ってしまうことが多々あるって。

 

擬音語や擬態語もそう。「ふわふわ」はなんで「ふわふわ」で、どうして「ふわふわ」で「ふわふわ」が伝わるのかしら、と思って、造語なんかを作って実験したこともありましたっけ。言語学はあいにくかじったことがなくて。言葉の成り立ちを学んで、わたしも言葉を編んでみたい気持ちもあるのだけど、まあそこに至るまでには長い時間がかかるだろうし老後の楽しみにします。

アレクサが家に来て楽しんでいるわたしを見て、父が「アレクサが楽しいのか、お前だからそんなに楽しそうなのかわからん」と言っていたけれど、わたしもかなり自分は楽観的で好奇心旺盛なミーハーだという自覚があるので、後者の要素は多分に含まれると思います。そうでなきゃ言語学を老後の楽しみにしないでしょうからね。