おやすメロ

最近考えてたこと、まあ色々あるんですけど、今日は愛の話しちゃお……この前もしてませんでしたか? してた気がする。わたしはすぐに愛の話をする。

 

刀のゲームを久々にちゃんとやったら怪我をして帰ってきた近侍の大倶利伽羅くんが「刀は殺し、殺されるための道具だ。今更分からないとは言わせない」って言ってきて滅茶滅茶興奮しちゃった。

刀は殺し、殺されるための道具だ。今更分からないとは言わせない…………言わせない…………いわせない…………。

言わせないでくれ〜〜〜!!!!!!

えーーー!?!!?新ボイスだと思うんですが何この……愛は……。

ツイートしようと思って正しいセリフを調べようとしたけどなんて名前のボイスなのかすらわからず結局もう一度つついて言ってもらいました。見つからなすぎて私信かと思っちゃった。

 

倶利伽羅くんのこと、前までガチ恋してたと思うんですけど、今となっては何だかちがうような気がしている。

なんて言ったらいいのかな……推しでもないし、崇拝しているとかでもないんですけど。

覚悟が愛だというのは、その言葉だけで伝わるものでしょうか。行動することで愛を示すのが至上だと思っている、と、前にブログに書いたと思いますが、むしろわたしはそれ以外にあまり価値を見出していないのかも、とここ数日は思っています。そして、ただ行動するだけではだめなのだと思っています。そこには覚悟が必要で、納得が必要なんだと思う。

ああだめだな、本当はもっと書きたいことがあったんですけど、ここで書くべきかもう少し考えます。

 


わたしが推しに対して抱く一番大きな感情は「同じ地獄を腹に飼いたい」なんだと思います。

それは本当の意味で同じものではなくて(それは無理なので)、わたしなりの噛み砕き方で飲み込む、という話なんですが、飲み込んで腹に飼い続ける覚悟を決めたいんだと思います。覚悟を決めて行動することが、専らわたしの愛なので。

 

倶利伽羅くんが馴れ合わないのは「なにものこさない」ためで、それは自分がいなくなった時に相手が悲しんだり、損なわれたりすることがないようになのかなあと思っています。あの人は刀の付喪神なので。戦いの中で折れることが本懐なのかなって。

でも、人の体を得て生活をする以上そんなことはできなくて、それでも最小限にしか残さずに、刀として、戦いの最中に死ぬことを求めていたのだと思います。でも、旅の中でそれはできないことを悟って、それでも帰ってきてくれて、今度は主人たる人間に対して己を振るう覚悟を決めろと何度も何度も告げてくれる。

「戦場はあんたが決めろ。」

「いつまでだろうと、俺は戦い続ける。あんたが求める限りな。」

「あんたはあんたの戦いをしろ。俺は俺で戦う。」

「戦場を決めるのはあんただ。あんたがいなければ、俺たちはどうにもできない。」

「刀は殺し、殺される為の道具だ。今更わからないとは言わせない。」 

え? “愛” か? これが。

孤高なままであの人は、向き合う覚悟を決めてくれたんだと思う。そしてそれをいつものように行動で示してくれている。言葉を重ねて、行動を尽くして、何度でも何度でも伝えてくれる。これを愛だと言わないで何と呼ぶのか、わたしにはわからない。

 

善とか悪とか、ただしいとか、そういうものの定義について先週から考えていたのだけど、少し性質としては違うけれど、包括的な概念という点では、「愛」も似たような性質があるとわたしは考えています。なので、定義ができない、または難しいということですね。

それでも何か、わたしが信じるものを挙げるとするならば、向き合うこと、行動すること、言葉を尽くすこと、信じてもらおうとすること、信頼に応えようとすること、覚悟を決めること、なんじゃないかなーと思う。

 


同じことを繰り返し繰り返しここでも書いていますけど、それはわたし自身これがうまく言語化できていないと感じているからです。少しの言い回しの違いでも、違うように取れるかもしれない。そのようにして、わたしの言いたいことが伝わればいいなと願っています。

 

 

 

これからもわたしは多分繰り返し同じことを書きます。愛の話に限らず、いろいろなことについて、きっと何度も何度もかんがえて、何度も何度も言葉を探して、何度も何度も問いかけて、そしてできれば、行動したい。それが動くことにつながるのか、沈黙を選ぶのか、場合によるとは思います。それでも、なぜその選択をするのかはきちんと理解したい。納得したい。覚悟をしたい。

するべきだと思ってもできないのであれば、それが何故なのかをきちんと自認したい。そうやって向き合うことが愛だと思うから。

愛を持って行動することがなぜ必要なのか、はまだ、答えを出せていません。

そうして欲しいから。そうだと思います。そうするべきだと思うから。

なぜ?そうしてもらうと嬉しいから。そうだと思います。そうしたいから。当然そうだと思います。


わたしは自分が納得したルールにはものすごく忠実に従う方だと思うんですよね。規律的というか。かと言って、社会の決め事みたいなものに諾々と従っているわけではないな、と自分では思っています。あくまで自分から見た視点で、他の人から見たら違うかも知れないけど。

だからこれも、なんらかの基準で決めた自分なりのルールに基づいているんだと思う……それがなんなのかをまだ、考えている。だからたぶん、また同じ話をする。牛みたいですね。