Skin-Deep Comedy

 

 


最近ずっと、自分がキャラクターと人間を同じように扱っていることについて考えている。わたしはキャラクターを非実在の存在として捉えた上で、実在の存在として扱う癖があるのだが、一体どういう捻れ方をしたらそんな風に話すようになるのか、自分でもよくわかっていない。

 

たとえば、今ハマっているApex Legendsのアジャイ・シェに対して、誇り高く戦い続ける彼女の心を誰が守るのだろう、と心配している。 10代にして、彼女のことを守ってくれるホームもファミリーも失って、放り捨てて、敵に回して、24歳の今もなお理不尽な世界で闘い続けている彼女のことを、誰が守るのだろう? 心細くはないだろうか。 投げ出したくはならないだろうか。

答えは簡単、ノーだ。彼女はそんなことは思わない。少なくともその描写がない限りは。理由も単純。彼女はゲームのキャラクターに過ぎないからである。

それでもわたしは、彼女のことを実在する存在であるかのように案じて、愛して、心を砕きたいと思っている。その理由の一つはたぶん、わたし自身がそうやって愛されたかったからなのだ。

 

「なぜわたしだったんだろう」、と思うことがある。大体それを考えるのは、家族のことを思い出す時だ。そこに理由などないことを知っていても、神や運命なんてものを信じていなくても、選択した現在以外に「今」が存在しないとわかっていても、それでも「なぜ」と思ってしまうタイミングが、たしかに存在している。

守って欲しかったな、と思う。どうしてわたしが手を離さなければならなかったのだろう、と思う。できるかできないか、で聞かれたら、できる。わたしは ひとりで立てるし、わたしはひとりで歩くことができるようになった。良くも悪くもたぶん、家族のおかげで。

それでも、「大丈夫か」と聞いて欲しかった。わたしの覚悟やわたしの強さを信じたままで、それでもなお案じて欲しかった。

アジャイのことを案じるのは、わたしがそうやって愛されたかったからなのだ。愛して欲しいからなのだ。わたしは彼女を愛するふりをして、自分の心を慰めているにすぎない。自分のことを愛そうとしているに過ぎない。……のではないか、というのが今のところの仮説ね。

 

あー、これってアレ? 分析しすぎのやつ? 過度な分析はやめなさいって言われてるんだけど……でも多分、これって呪いじゃなくて祝福だと思ってるんだけど、どうかな。

キャラクターに限らず、わたしは物語を鑑賞してそこから何かを得ることが好き。そうやってわたしの人生を拡げてきたし、愛してきた。わたしが愛せなかったわたしの弱いところを、キャラクターを愛することで愛することができた。

みんなが愛されたかったように他人を愛して、愛してもらって嬉しかったように他人を愛していけば、世界はもっといいものになってもいいはずなのに、なかなかどうしてそううまくはいかない。わたしの愛も完全ではなくて、相手にとって足りないものや、激しすぎるものが混ざっている。「なぜ」「どうして」の答えの一つは、きっとそれなのだ。だからわたしには物語が必要で、その欠落を自分で必死に埋めている。短い人生の中で、その欠落を埋め終えることができるかどうかはわからない。それでも、せめて。

 

Skin-Deep Comedy/皮一重の喜劇

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