無題


書きたいが、書くべきではないかもしれないし、書けるかもわからないと思っていること、わたしは安倍晋三の死を悼まないということです。同じように、石原慎太郎の死も悼まなかった。これからもきっと悼むことはないでしょう。

殺人はいけません。それは法で定められたルールだし、誰かの生きる権利を奪うことは社会生活を営む上で許容されてはならないと思います。殺人も、暴力も、テロリズムにも、わたしは反対の立場をとります。
そして、今回のことで安倍晋三の命が失われたことを残念に思います。今後、彼の罪を明らかにすることが困難になったと言うただ一点において、残念に思います。

あの人たちに人権を踏み躙られてきた人がいること、今もなおヘイトクライムの矛先を向けられる人たちがいること。権力を濫用し、説明責任を果たすことはついぞなかったということ。
どうしてあのひとたちの死を悼むことができるのか、わたしにはわからない。人が死んだニュースにショックを受けることと、あのひとたちの死を特別に、こんな形で悼むことは、絶対に区別されるべきだ。じゃあ、自殺した財務省の官僚は? やまゆり園の人たちは? あの人たちが撒き散らしたヘイトクライムの矛先になった人たちは? 同じように悼むべきだ。同じ人間なんだから。

そういうことをずっと考えている。
本当に人の死を悼むなら、わたしたちにできることは差別や暴力を許容しないための社会に向かって歩いていくことしかない。それがどんなに険しい道のりでも、あなたと友達になるために歩いて行くしかない。
わたしは民主主義を諦めたくないよ、安倍晋三とは違って、わたしは、差別のない世界や平和を希求し続けたい。それが終わったらきっとようやく、あの男の死だって悼むことができるだろう。



追記:
実のところ、ご立派に民主主義だなんだと書いたがあの男と友達になれたとは思わんし、死んでくれてありがとうとすら思う。わたしがテロリズムを否定する理由も、それが間違った手段であることだけではなくて「キリがないから」の方がでかいんだよな。しかし、そういう憎悪が繋がれていくのは悲しいことだろうと思うよ。だから民主主義の中で、全ての個人の自由と権利を尊重しながら生きられるようになって欲しい、じゃあどうやって? そこが1番の問題なんだけど。