FAITH

友人におすすめの本はあるかと聞かれたので、昨年別の友人に送った「おすすめの本リスト」を共有しました。今見返すと酷い出来で、なんというか、情熱が足りなくて面白くないリストだったなと思います。今度しれっと編集しておこうかな。

どちらの友人も、そのリストの中から『カリギュラ』を選んで━━というよりは、わたしが推薦しまくって━━読んでくれました。

高校生の時、PSYCHO-PASSの外伝小説に出てきたのをきっかけに読んだあの本に、もうずっとわたしは魅せられていて、ことあるごとにこうして他人にあの本を勧めては感想を聞かないと満足できないようになってしまった。わたしが特にひっかかっているのは、主人公・カリギュラが認め、ある意味では愛した男、「幸せになるために」カリギュラを殺した男・ケレアの行動原理で、もう5年以上、わたしはその男のことを考えています。

ここで引用でもすればもう少しわかりやすく説明ができるのだと思うんですが、現在手元に本がなくてそれが叶わないのが悔しい限りです。わたしは一昨年から、読んでいる本の中で覚えておきたい一文を書き留めておくためのノートを持っていて、それは実家にも持ってきているんですが、なぜかそこには『カリギュラ』からの引用は一文もありませんでした。一人暮らしの部屋にいるときには、いつでも手の届くところに『カリギュラ』を置いていたので、そのせいだと思うんですが……こんなにも『カリギュラ』を愛しているのに。滑稽ですね。

 

ケレアはカリギュラのしようとしたことを「みんなを不幸にする」と非難し、カリギュラの皮を被った不条理擬きを殺した。それこそが本来はカリギュラの目指した結末だったのだろうな……と思います。だから、ケレアは必要だった。みんながカリギュラを理解する必要はどこにもない。カリギュラになる必要も、カリギュラに寄り添う必要もない。

それでも、カリギュラの論理を理解しているはずのケレアが「カリギュラのしていることはみんなを不幸にする」「俺は幸せになりたい」と言うとき、わたしは彼のことを理解できなくなります。というよりも、多分理解と言うより納得の問題で、わたしはこの考え方に共感したくない。この先一生理解したくない。

 

先述したわたしのノートの中に最近加わったものに、ジョージ・オーウェルの「ナショナリズム覚え書き」からの引用があります。

誰でも政治━━広い意味での政治━━に関わらねばならないし、好みを持つべきだ。つまりは、客観的に見てある種の信条は他のものより良いと認める必要がある。様々な主義信条が同様に悪い方法で唱えられているにしてもである。私がここまで論じてきたナショナリスティックな愛情や憎悪は、それを望もうが望むまいが、私たち殆どの者の構成要素となっている。それを取り除くことが可能なのかどうかはわからないが、それに抗って戦うことはできるはずだと私は信じているし、そうすることは本質的に倫理的な試みだと信じている。まずそれは、自分がどんな人間なのか、自分の感情がいかなるものなのか発見することであり、避けられない偏見について考えてみるという事なのだ。(略)ただ熟考するばかりではそういう感情を取り除くことはできない。それでも少なくとも自分にそういう感情があるという事実を認識することはできるし、その感情が自分の精神的作用を汚すのを防ぐことはできる。感情的な衝動は避けることができないうえに、おそらくは政治的行動のためには不可欠なものであろうが、それでも現実の受容と共存することは可能なはずだ。

 

わたしは最近、人間の見た目に興味がなくなってきました。というか、人間の見た目と人格を極端に切り離す術を覚えたのだと思います。中学生のわたしがそうだったか、高校生のわたしがそうだったか、大学に入ったころのわたしがそうだったかと考えると、おそらくそんなことはなかった。わたしは人間の外見を勝手にジャッジするための指標にしていたし、それを人格に結び付けたことすらあったと思います。特に、目の前にいない人に対して、誠実な人間であったとはとても言えません。政治にも、社会問題にも、今ほどの関心を持っていなかったと思います。報道を文字通りに受け取る、批判的精神に欠けた人間でした。

今だって、完璧にそれができるわけじゃない。わたしは差別を無意識にしてしまうだろうし、無意識に人をなにかしらの指標で勝手にジャッジしているんだと思います。批判を忘れて信じ切ってしまうこともあるでしょうし、わたしがまだ気が付いていないわたしの醜悪で矮小な部分が人を傷つけることもあるんでしょう。

ただ、わたしはそれをできるだけ辞めたいとおもっていて、そうして積み上げて倫理的な人間で在りたい。それは誰のためでもなく、わたし自身がそう在りたいというだけの理由で、わたしは倫理的な人間になりたい。 

そしておそらく、できれば他の人にも同じように試みてほしいと思っているのだと思います。

だから━━というと論理が飛躍しすぎますかね、だからケレアのことをわたしは一生理解できない気がするんだと思います。わたしはカリギュラには似ていないし、カリギュラにはなれないし、それどころか皇帝ですらないわけですが、それでもわたしは人間を愛しているし、愛しているから、もし人間が誤謬の中で「幸福」に揺蕩って生きているなら、たとえその人が嫌がったとしてもそこから引きずり出すべきだ、と信じているんじゃないか、

 

少なくともそうでありたいと思っています。