クソボケカス情緒

恋愛のことがよくわからなくて、恋愛のことを知りたいと思っている。世の中の事象には、わたしが理解できる範囲にいてほしい。全部言語で説明ができたらいいのに。

そんなことは無理だとはわかっていても、たまにそんなことを夢想する。

恋愛のことはよくわからないけど、死ぬほど面倒くさそうだから、したいとはあんまり思わない。どうやら他人はわたしが思うよりもずっと恋愛やそれに準ずる感情のやり取りをしているみたいで、たまにびっくりすることがある。大抵、それには気づくことができなくて、打ち明け話をされて初めて気が付くのだ。

わたしは「銀河英雄伝説」のアニメ版のキルヒアイスの恋心にも気がつけなかった女だからね。わかるわけないんだよな。小説には全部書いてあるからわかりました。

一昨年の正月、心配した親に情操教育のために「逃げ恥」と「大恋愛」を強制的に見せられたけど、理解できずに親を質問攻めにして匙を投げられたこともある。ヒトの感情は難しい。

 

とはいえ、知らないものを理解することには興味がある。強制されたり、他人が関係したりしてこないのであれば、嚙み砕いて自分の物差しの中に取り入れることは苦ではない。

なので、恋愛について色々な見方が知りたくて、『現代思想 2021年9月号:特集<恋愛>の現在』を購入し、その中の清田隆之氏の「もうだれかと恋愛することはないと思う」を読んでいた。

”恋愛以外”の経験に言及しながら、「恋愛」に回収されてしまいがちな感情体験の話をするという内容で、恋愛感情のことをよくわかっていないわたしとしては、大変興味深く、また共感しやすい文章だった。

 

失恋とは単に相手を失うだけでなく、その相手がいる前提で成り立っていた日常や自分自身を失う体験だ。定期的に取り合っていた連絡、二人で築いた習慣や共通言語、その人がいてくれることの安心感、その人にしか見せられない顔、その人と過ごすはずだった未来など、そういう諸々を手放すことになるのが失恋で、これを乗り越えるためには日常を再構築し、その人のいない毎日に少しずつ慣れていくしかない。近しい人を亡くしたときにも通じるものがあるのではないか……それが“小さな死”と感じるゆえんだ。

 

清田氏の文章を読んでいてわたしが思い出していたのは、大学時代に仲たがいしてしまった年上の友人だった。本人にも言ったことはあるが、顔が大変好みだった。たまたまとった授業のグループディスカッションで意気投合したということももちろんあるけれど、わたしが彼女の連絡先を聞いた一番の理由は顔だ。

毎日のように寝る間を惜しんでLINEをして、バイトや学校の合間をぬって遊びにいった。たのしかった。話もあったし、頭もいいし、可愛かったからすきだった。無神経なところがあるのと、絶対に謝らないところを除いたら完璧。

悪くないことを謝る必要はないけれど、悪いことも謝らなかったから、わたしは彼女を許せなくなっちゃった。彼女は彼女で、小さなことで怒るわたしのことを理解できなかったから、連絡をとることも会うこともしなくなった。かろうじてInstagramは繋がっているけど、それだけだ。

 

怒っていたし、怒っているし、許せないけど好きだから、仲のよかった頃のことをたまに思いだしては懐かしんでいる。

あれは恋だったかと問われると、そうとは言い切れないけれど、他のどんな別れよりも"小さな死”には近かった。

でもそれは感情の種類というよりも、隔絶の仕方の問題かもしれないね?どうかな?

あれが恋なら、もっと他にも恋はあった。きっと今も好きな人間がたくさんいる。

恋愛に形なんかきっとなくて、言語化できる定義なんて存在しないんだろうと思う。なのに、恋愛はあたかも形があるように扱われている、と思う。

そのちぐはぐな感じが理解できないのだ。殺意みたいにもっと明確に、感情としての精度を高めてほしい。

特別な感情は「恋愛」じゃなくたってきっと感じられるのに、恋愛だけが「特別」にされることが我慢ならない。その文化の中で生きることを、当然のように受け入れることができない。

 

それとも明確な感情はあるんだろうか? 私に理解できていない、精度の高いそれが。

たとえば恋愛には、いくつかのフェーズが存在していて、わたしはそのうちの一部だけを理解しているのだろうか。だから鮮烈な感情があると認められないのだろうか?

わからないから、まだ考えている。いつか、自分の中で言葉を与えることができたらいいなと思っている。

なんの話だ?これ。