鯨
「自分たちがこの世にいたことを、だれかが知るだけでいいんだ。それで報われる。俺たちはここにいたぞ、って。」
『劇場版 RE : cycle of the PENGUINDRUM [前編]君の列車は生存戦略』の前に流れていた予告編でこの言葉を聞いたときに、『犬王』を観に行こうと決めた。
この物語はわたしのことも、ちゃんと「拾ってくれる」だろうと思ったからだ。
「あなたはあれじゃん、LGBTQの”Q”みたいな感じだから」って、以前友達に言われたことがある。
そうだね。そう、わたしはそれを選んだよ。
クィアであろうと思っている。クエスチョニングだなあと思っている。
そういうものじゃあないという人もいるかもしれないけれど、少なくともわたしにとっては、これは「名乗り」の問題だ。
『犬王』は、「名乗り」の物語だった。
作中で犬王は「犬王」になるし、友魚は「友一」になり、「友有」になる。
そこに込められた彼らの意思と選択のことを、作り手がわたしたちに届けようとしてくれた祝福のことを思うと、嬉しい気持ちになる。だからわたしはこの物語が好きだ。
同時に『犬王』は語る術を持たなかった者たちの物語だった。
語ることができなかった者たちの、語り継がれることの無かった者たちの物語。
それを拾って語った犬王と友有もまた、、、という話。
先述の『劇場版 RE : cycle of the PENGUINDRUM [前編]君の列車は生存戦略』(以下、ピングドラム)では、「きっと何者にもなれないお前達に告げる」という言葉が何度も繰り返される。それは「自分以外にはなれない」という意味合いであるが、以前にも書いたように「『何者か』にはなれない」という諦念をも含む言葉だろう。
わたしたちはきっと、何者にもなれない。語る術を持つことは難しいし、語り継がれる人はごくわずかで、「何者か」になったところで(つまり、犬王のように時代に影響を与えたとて)、600年後には名前のほかにほとんど記述などないかもしれない。
(本当はここでスピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』の話がしたいし、ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』の話がしたいし、オーウェルの『ガンジーを顧みて』の話がしたいが、それは少し本筋とずれるような気がするので、別の機会に取っておこうと思う。興味があれば読んでみてください。)
わたしは、誰が、どの立場から、どのような手段で、どんなことを語るのかに興味がある。どんなことを語ることができないのか、どんなことを語ろうとしないのかに興味がある。
それは語り手の中で完結することではなくて、構造の問題であったり、聞き手であるわたし自身の問題であったり、わたし以外のオーディエンスの問題だったりするんだろう。
そこに興味がある。全部切り分けて考えつくしたいほど興味がある。
そして語られたことを、語られなかったことを、その理由を、できれば尊重したいと思っているし、それが構造の問題によって語ることができないのであれば、その構造をぶち壊すためになにかしたいと思っている。
語られなかった物語を拾ってくれてありがとう。犬王にも友有にも、受け取った群衆にも、この物語を贈り出してくれたくれた人たちにもそう思う。受け取ることができてよかった。だからわたしはこの物語が好きだった。
あとは単純にストーリーの構成も、演出も、曲も最高。
もうここは好みであるという以外に言うことがない。
ストーリーの構成については、パンフを読むとわかるけれど、最初と最後のシーンは原作にはないらしい。野木脚本、最高~~~。
古い物語を蘇らせる、という構成で言えば、わたしの好きな俳優が出演していたこれもかなり近いものがあった。
2019の方が実際に見た(と言ってもチケットは取れなかったのでライビュだった)ので、思い入れがあるのだが、2020はYoutubeで無料で見られるので、是非。細かいところで変化はあるものの、ほとんど変わっていなかったはずなので……。
弟の方がわたしの好きな男だよ。兄役も弟役もどちらも歌唱力・身体能力があり、舞台に映える人たちなので、是非……。
この話の最後は、わたしたちにできることは「兄弟たちの仇討ちを、後の世も、また後の世も語り継ぐこと」のみであると締めくくられて終わる。
犬王の物語も、今こうして新たな語り手を得た。
しかし、本当に、わたしたちにできることはそれしかないのだろうか?
「この世界は選ばれるか選ばれないか。選ばれないことは、死ぬこと。」
これも、ピングドラムの中で示されるテーマの一つ。選ばれなかった子どもはどうなるのだと思う? 世界から忘れ去られて、「透明になってしまう」のだと、アニメの中では描かれる。じゃあ、現実では?
選ばれることを選ぶことはできない。選ばれなくても、選ぶことはできる。
語られなかった物語が、もっとたくさんあることを忘れないことも、できれば拾い上げることも。何者にもなれなくても、きっとわたしたちにはできると信じている。たとえ、鯨が100年来なくても。