正しくなれない

 

先日、母にノルウェージャンフォレストキャットを選んだ理由を聞かれた。「原種に近い猫がよかった、人間の業を感じたくないから」と言ったら「生きづらそう」と言われた。

ウーバーイーツの事業形態に否定的だから使わないのも、ニンゲンのエゴのために交配が繰り返された猫種を買わないのも、舞台俳優を追いかけるのをやめて、彼についての言及を避けるようにし始めたのも、スポーツ観戦というものの非対称性に加担したくないから見ないのも(これは以前にも書いたような気がするが、わたしは今でもスポーツ観戦というものが苦手だし、わたしがあれを楽しめるようになるころにはコロッセオで奴隷を戦わせて喜ぶ人間になっているはずだと真剣に思っている)、全部多分同じ根っこから生まれる忌避感だ。

それはもっと突き詰めていけば、例えば保護猫しか飼わないだとか、宅配便も使わないとか、いくらでもできるはずなのだけれど、わたしはブリーダーから猫を買ったし、クロネコヤマトのお世話になっている。どこかで折り合いをつけているのだ。結局のところ、わたしは聖人君子でもなんでもない、多少理屈っぽくて面倒くさいだけの小心者にすぎない。それでも、可能な限り自覚的に、自分の責任の中で選択をしようとは思っている。

 

これも、その葛藤の中で書いている文章だ。

 

就職活動をしていた時に、仲のいい友人数人に頼んでわたしへの評価を記入してもらった。その中で、「勇気がある」と書いてもらえたことを時折思い出す。嬉しかった。

どういう状態のことを指しているのか聞いたら、確か「行動を起こすという意味だよ、それから、ちゃんと考えて向き合おうとするところ。」と言ってくれた。嬉しかった。

両親には「差別をしない」と言われた。それも嬉しかった。
「しない」わけではない。わたしはそれを今だって痛感しているし、差別的なニンゲンであるという事実は引き受けていかなければならないと思っている。それでも、そう言ってもらえたことは嬉しかった。

 

わたしは、どんなに好きな人にも嫌いなところがある。嫌いな人にも好きなところがある。まるごとそのまま愛していても、苦手なところはあっていいはずだし、絶対にあるものだと思っている。これは高校時代から何度も友人と議論を重ねてきたテーマなので、そうでない人間がいることも知っている。でも、わたしにとってはそうだ。

人が好きなものをわたしが嫌いでも、わたしが好きなものをあなたが嫌いでも、本当はどうだっていいはずなのだ。わたしが嫌いということは、あなたのスキを否定することではないはずだし、意見を異にするのも同じだと思う。

だから、気にしないでほしい。わたしが好きなものを嫌いだという事も、私がいいと思ったものを苦手だと表明することも、わたしの言動の一部に苦言を呈することも、目を背けることも、謝る必要も憚る必要も全くない。

 

でも、わかるよ。嫌われたくないからだ。わたしもきみ(これは特定の誰かを指す二人称ではなく、不特定多数の読者である「きみ」を指しています)に嫌われたくないから、きみの差別発言を見なかったことにするし、微笑んで受け入れたふりをする。それは単に「好きな相手の嫌いな部分」として受け入れてもいいものかと逡巡しながら、同じように笑ってみせる。そしてその線引きの妥当性について、ずっと考えている。

勇気を持ちたいね。高潔でありたい。倫理的な人間でいたい。差別をしてしまう、間違えてしまうことはあっても、そこにあることに気がつけたなら、目を背けるべきではない。逸らさないようにしたい。気がつけるように、センサーを切ってしまわないように、アンテナを増やせるようにして、そして本当は、きみを正面から批判したいし、されたいよ。

 

正しくなれない

正しくなれない

  • ずっと真夜中でいいのに。
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes