王様は裸だ

 

 

父親が中国の「パクリ文化」や韓国のメディア文化を偏った知識で揶揄するたびに、わたしは弱弱しく「そうかなあ」と言うようにしています。

先日行った美容院では、「日本は資本主義ですよね?生活保護ってなんなんすか?おかしくないすか?」って美容師に聞かれて、わたしはやはり弱弱しく、「それは違うんだと思いますよ」と言いました。

そういう出来事を反復しては、あの時もう少しきちんと話をすればよかったと後悔しています。弱弱しいのは声音ではない。わたしの心の問題です。

 

心理的安全性が低いところで声を上げるのは難しい。わたしだって多少なりとも場の空気を読むことはできるのだから、それはわかります。

疑問や反発を抱きながらも弱弱しく「そうですかね」「それは違う気がしますけど」なんて言うのも、反射的にしてしまう自己防衛の一環なのでしょう。他人になったことはないからわからないけど、みんなそんなものなんじゃないかなあ。

 

心理的安全性が高いところ──たとえば(メンツや議題にもよるけど)教室の中、Twitterの鍵垢、クローズドな親友と囲むカフェのテーブルとかは、それに当てはまるのかな。つまり、わたしの話したことを理解しようと努めてくれる人がいるところと言い換えてもいいのかも知れないですね。そういうところでなら発言できます。わたしはわたしの考えていることをきちんと述べられるし、疑問を抱けばそれを提示することもできます。ここに至っては、言いすぎてしまったり、その場で言うべきではないだろうことを言ってしまったりすることすらあると思います。それは本当によくない……。

小さい頃からそういう子どもだったので、母には「口は災いの元だよ」と口酸っぱく言われました。さすがに子どもの頃よりはマシになったと思……どうですかね?

 

家族の中でも概ねできるけれど、問題によっては少しだけ躊躇ってしまう。理解してもらえないんじゃないかと思ってしまうんですね。

最近は母もかなりわたしの話を面倒がらずに聞いてくれるようになったのですが、昨年の3月などは本当に、「難しい話はわかんないから」「また面倒くさいことを言い出した」で流されたりしていて、実は結構傷ついていたんですよね。そんなことを言われても、「面倒くさくない話」ってなんだよ!と思ってしまって。わたしが見て、調べて、考えだしたそれしか、話題なんてないんです。

父については、話を無下にすることは基本的にはないけれど、冒頭に述べたような発言は目に余ると思います。敵意があるというよりは、「こういう扱いしていいよね」って感じ。よくないよ。よくないし、その認識ってどうやって、どこにたいして付与されたイメージなのかな。

 

わたしは物をはっきりという方だと思っていました。割と怒ったらその場で言いますしね。後からも言いますしね。

そうでもないなと最近は思います。わたしが自分のことを物をはっきり言うって思っていたのは、どちらかというと、強い怒りの中にある時に視点を当てていたんだろうなあ。

一方で、心理的安全性が低いところでは、はっきりと物を言うのはやはり怖いのだと再確認したという話です。自分の中に知識がちゃんとない、と感じているときには特に恐怖感を覚えます。

じゃあ、なにについてなら語れるんだよ! と言われると、それはそれで困ってしまうんですよね。今考えてみたけれど、わたしは大抵のものについて知らないので、それこそ長年繰り返し読んできた本の内容やアニメの話題くらいしか胸を張って語れるものなどないような気がしてきました。さすがにヤバいんじゃないか、と思えてきますね。でも、本当にそういう気がします。いくら勉強しても、まだ次がある。

 

でも、こうして色々と考えて、不勉強でも声を上げようと思うようになりました。それで知らないことがあったら勉強すればいい、ただそれだけの話なんですよね。それはそれとして勉強は続けていくつもりだし。

とりあえず、怖くても、全部は言えなくても、違うんじゃない?って思ったらちゃんと、弱弱しくない声と態度で、ちゃんと言おうと思います。できればその理由も。

 

そういうことを考えながら読みました。

 

 

世界が完全に思考停止する前に (角川文庫)

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