息ができなくなるギリギリまでの

「おまえはこの部屋にばかりいて、よく平気だね」とこの間父に言われたことを思い出していました。

「わたしの世界はこの部屋で完結していないので、特に問題を感じない」と答えたら、よくわからないと言われて、それを聞きながら、そうは言ってもそれはこの部屋に限ったことでもないのかな……とまた跳躍した思考で考えていた。アクセスしやすいのは当然、「自分一人の部屋」なわけですけど。

わたしは肉体よりも思考の方に重点を置いて生きているんだと思います。運よくわたしには、SNSやゲーム、本のようなツールがあって、今ここだけじゃない世界に簡単にアクセスできるし、友人とつながることもできる。一人暮らしの部屋にいたときも似たような生活をしていたから、慣れているのかもしれないです。

そう言ったら父は納得してくれて、姉はこういうの苦手なタイプだよね、と溢していました。わかる。

 

姉はなんていうか、そもそも友達付き合いが下手なんですよね。

近年彼女の話に登場する人物は、話を聞いていると利害関係で繋がっているような感触があって、「友達」と呼ぶにはどうにも違和感があるなと思ってしまう。そのうちの一人の話は以前ここにも書いたかもしれないけれど。

あとは、関係性を続けるにあたって過去に理由付けを求める傾向があるんですよね、彼女。「〇〇くんとわたしは幼稚園からあれだけ同じクラスになったんだから、仲良くするのは当然だ」というような感じ。

わたしにはそれがよくわからなくて、正月に帰ってきた彼女がそう言うのを見て「違うんじゃねーの」って思ったけど、言わなかった。

たのしいから一緒にいて、面白いからいろんなことをして、この件については信頼してるからこの話をする、とか、そういうことでいいんじゃないかなって思うんだけど。というか、そういうものだと思っていました。わたしはね。

 

わたし、高校卒業のとき卒業式で泣けなくて。斜に構えてたとかひねくれてたとかってわけじゃなくて、泣く意味がわからなかったんですよね。

明日から会うのを禁止されるわけでもない、連絡を取り合う手段はある、そりゃあ昨日よりは難しくなるし、一つの区切りを迎えたことには違いないだろうけど、会いたければ会いに行けばいいし、喋りたければ喋ればいい。この先人間関係がだめになることもまあ、なくはないだろうけど、それは卒業に起因するものではないでしょう。だからぜーんぜんわかんなくて、泣く意味が。

友達に対してずっとそう思ってるの、会いたければわたしが会おうよって言えばいいし、手を伸ばしたければわたしが伸ばせばいい。つながりを消したくないならわたしが消さなければいいじゃん!って。

身も蓋もない意見なのかもしれないけどね。死んでも明日はくるんだから、ってくらいに、「そういうことじゃないだろ」みたいな話なのかもしれないけど、少なくともわたしにとってはそうでした。

 

わたしの大好きなアニメ『輪るピングドラム』で、「キスは無限じゃないんだよ。消費されちゃうんだよ。果実がないのにキスばかりしていると、私は空っぽになっちゃうよ」って言ったヒマリに、

サネトシが「じゃあ、心が凍り付いて息もできなくなるギリギリまで、キスを繰り返せばいい。ああ、惨めでもいいじゃないか。キスができるんだから。何もしないで凍り付いても面白くないよ。だったらキスをして凍り付く方が面白いんじゃないかな」っていうシーンがあってね。

イクニ作品で同じテーマを扱っているのは『ユリ熊嵐』もそうだと思うのだけど、こっちでは「スキ」を諦めなければ「約束のキス」を手に入れることができるの。

このアニメのラストは、「約束のキス、ぼくからすればよかったんだ」で終わる。

キスで得られる「果実」や、スキを諦めないことで得られる「約束のキス」を、わたしとわたしの大切な人たちとの間に生まれる日常や承認だと仮定しながらこれを思い出していて、わたしが4年前の3月に決意したのは、そういうことだったんじゃないかなって思っていました。息ができなくなるギリギリまでのキス。

ちなみにあんさんぶるスターズ!の「Link♪ここから始まるシンフォニア」も同じ話をしていたとわたしは思っているので、みんな読んでください。

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理想論者だから、本当はそれをもっとたくさんの人にできたらいいのに……と思っている。ね、渉。人類に贈りたいよね、キス。姉には贈れないキスだけど、もっと大きなくくりでだったら贈ることができるんじゃないかと考えています。