St. Luke should know better

わたしは「マルタとマリア(ルカによる福音書10章38節)」と、「『放蕩息子』のたとえ(ルカによる福音書15章11節)」が嫌いだ。

神や聖書の教えにどうしても賛同できないとき、キリスト者キリスト者にかぎらず、信仰を持つ人は常にこの可能性に直面しているのだろうと思うのだが)はどうするのだろう、と昨日考えていた。妹が客をもてなす手伝いをせずにいたことを責めたマルタが、どうして彼女のもてなしを甘受していた客人ごときに窘められなければならなかったのだろう。身勝手に放蕩を尽くした弟が手のひらを返して擦り寄ってきたとき、兄はどうして怒りや憤りを感じずにいられるだろう。何故、彼の怒りは受け入れられなかったのだろう。教訓として(つまり、窘められるべきものとして)、語り継がれなければならないのだろう。どうしてキリストの、父親の愛と喜びばかりが尊重されるのだろう。

わたしはそれを“正しい”とは思わない。だから嫌いだ。たぶん一生。

 

たとえば、わたしが家族のことをゆるせないと思うとき、キリストなら何と言うだろう? やはり、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。〇〇は良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言うのだろうか。言われた瞬間に家からキリストを追い出す自信がある。お前をもてなす人間はもうこの場にはいない。

 

 

いや、そもそもわたしが困っているのは、わたしがキリスト教の教えに反する考えを抱いているからではない。わたし自身がどうしたら良いのか、どうしたいのかがわからずに途方に暮れているのだと思う。

傷つきたくない。これ以上。それははっきりとしていて、でも、大事なひとを傷つけたくもない。両方を満たすことが難しくて、苦しい。

自分を守るためにすべてを忘れてしまいたくて、自分を守るためにはすべてを覚えておくべきだとも思っている。他人のためには忘れたくない。忘却することでゆるしたくない。

ゆるしたくない。ゆるさなくていいと言ってほしい。ゆるせと言わないでほしい。

ゆるした方がいいのだと思う。多分、わたしじゃない他の誰かのために。でも、それは本当にその人の望みをかなえる行い足り得るだろうか?

 

一昨日の夜は泣いて、お風呂に入って、アイスを食べて寝た。

クーリッシュの秋冬限定のカルピス味が美味しかった。もう売ってないのかな。もう春か。

昨日の朝は、瞼が腫れていて(そりゃそう)、冷やしているうちにまた泣きそうになって、困っていた。友達に寿司を食べに行く約束をしてもらったから、泣いている暇がなかったのでよかった。こんなタイミングでお願いしてしまったから気を遣わせてしまったかもしれない。会ったときにあまり話さなかったのは、信頼していないからじゃなくて、話をすることに多分耐えられないと思ったからです。友達がいてくれてよかった。いてくれたから、昨日の朝わたしはベッドから出ることができたし、いてくれたから泣かないですんだ。ありがとう。

根室はなまるに寿司を食べに行くときは、なんだかいつも傷ついている。その前後に本屋に行くことも含めて、元気を出すためのルートが決まっているのはちょっと滑稽で面白い。寿司ってたぶん、すべてを解決するんだね。

その後は突発的に別の友達から連絡が来たから池袋まで行って、夜まで遊んで帰った。友達がいてくれてよかった。

夜に、起こった事象を整理しようと思っていたのだけど、結局途中で力尽きて寝てしまった。

どこから話せばいいのだろう。6年前から?長すぎる。

あと、一昨日の出来事に関しては、泣いていたこと、強い言葉を言われて深くショックを受けたこと、何度も同じ話をされたことで、途中記憶が曖昧な部分があって愕然としている。ちょっと病院に行くことも考えたほうが良いのかもしれない。